u1row's blog

作曲、演奏、読書、アプリ制作・・・、生きた証を日々更新

久しぶりに

米国某所から昨日帰宅。高校の修学旅行に韓国を訪ねて以来の海外。
自分の中の比較対象がない状態、いわば曇りのない目で見た米国。
1週間そこらで、かつ某所1箇所という制約付きだが、「こんなに一生懸命な、ある意味しがみついていると言えるくらい必死な人たちの国なのか」と驚きが一番大きかった。自分の目には「ひとつになることや共有しているものを確認することに一生懸命な人たちの国」と感じられた。
米国は、新しいテクノロジーや研究成果を生み出す国ではなくて、共有できるコンセプトや切り口を提示することに一生懸命な国なんじゃないか。テレビも含めて、いろんなシチュエーション、いろんなテーマでディスカッションをするところを何度も目にした。
まずは相手とは違う立場を表明する。あるいは相手の意見を批判する。次に互いの意見をぶつけ合い、最後は「少なくとも、これだけは言える。お互いに●●だね。」で終わる。
この●●が、ディスカッションしないと導き出せないほどのことか?
それは前提条件なんじゃないの?と疑問に思うほど、あたりまえのことだったりする。
つまり、一歩も前に進んでないのでは?と。
意地悪く言うと、時間をとって前提条件を確認することに意味があるのか?と。
でも、そこで彼らは根本が違うんだということに思いあたる。さまざまな人種、歴史の浅いある種人工的な国家、そもそも共有している前提がない。
だからいつでも互いによって立つ前提、共有できるものを探し、それを確認して安心する。
これは絶えず言語化する作業とも言える。彼らは、新しいモノを生み出しているのではなく、新しい言葉を生み出している。
と、このようなことをどこかで読んだような気もするから、自分の感想こそ誰かの焼き直しなのかもしれないが、目のあたりにして実感したという点で、自分にとっての新しい発見として書き留めておいた。
それにしても、米原万理さんの本にあったが、周りの人が笑っている時にいっしょに笑えないという疎外感はなんともみじめなものだ。勉強、そして練習しないといけないなぁと身にしみて思った。