u1row's blog

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牽制力

読みかけの本に長崎二十六聖人の話が出てきた。
秀吉による国内キリシタンの処刑で、同時代の処刑としては世界に類例のないものだったという。
引き金となったサン・フェリペ号事件の詳細、当時国内にいたイエズス会士とフランシスコ会士の関係など、これまでの自分の教科書程度の知識では感じることのできない切迫感が伝わってきた。

意外だったのは石田三成が処刑者の数を極力減らそうと奔走したという話。
官僚的な人物というイメージがあるが、「大阪・京都中のキリシタンを処刑せよ」という秀吉に対して、イエズス会士とフランシスコ会士を区別するように説いたという。
当時同じ宣教師でも、イエズス会フランシスコ会、スペイン人とポルトガル人とイタリア人の違いはそこそこ明確に区別されていたらしい。
三成は、処刑者名簿から極力その数を減らし、秀吉の心変わりを待つためにしばらく寝かしたりしたのだそうだ。
石田三成前田玄以ら中枢にあって、知と情をもって状況を分析し処刑を回避しようとした者もいたが、権力者の老害をコントロールすることはできなかったということらしい。

秀吉の晩年について、老害という言葉を当ててよいのかどうか少し躊躇われる。
秀吉は朝鮮出兵と並行して、その後の明への侵攻やフィリピンへの侵攻を目論んでいたという。
夜郎自大な振る舞いや感性は、老害によるものではなく、秀吉個人に特有の感性でもなく、広く日本人に見られるものなのだと思う。
その振る舞いや感性がイケナイというのではなく、それを牽制する振る舞いと感性が併置されることが大切なのだろう。
石田三成前田玄以に秀吉を制する力があれば(それはありえないが)、二十六人の処刑者を生まずに済んだかもしれない。
権力を牽制する力は、権力と拮抗してはじめて牽制たりうるということだろう。