u1row's blog

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『福岡伸一、西田哲学を読む / 福岡伸一、池田善昭』読了

動的平衡」の福岡氏が、自身の「動的平衡」コンプトを援用して西田幾多郎を読み解くといった内容。
そもそもの始まりは、西田哲学に通じた(?)池田善昭氏が福岡氏の著書を読んで、西田哲学と福岡氏の「動的平衡」コンプトの間に通い合うものを読み取り、福岡氏に対談を申し込んだのがきっかけとのこと。そのため、この本は池田氏と福岡氏の対談という形で進められる。
たしかに、西田が語った「逆限定」「絶対矛盾的自己同一」といった難解な術語が、福岡氏による読み替えによって少なくとも何の話かがわかるように置き換えられ、ある種のスッキリ感はあった。
が、全体を通じてどうも読み心地が良くなかった。
その原因は、2人のお互いに対するスタンスのせいだと思う。

西田哲学の「逆限定」を、池田氏は「年輪」に例える。
「年輪は環境によって形成される、同時に年輪は環境を形成する」という。
これに対して福岡氏は、前半は良いとして、後半の「年輪が環境を形成するとはどういうことか?」と尋ねる。
池田氏から、きちんとした回答はない。福岡氏は斬りこむ。
「私が納得がいかないということは、きっと読者も納得がいかないはず。
ここで納得がいかなければ、先には進めない」と。
「いいね、まったくその通り!」「年輪の例えには無理があるでしょ」と思いながら読み進めると、突然福岡氏の方が折れて、
「私が勘違いしていました。おっしゃる通り、年輪が環境を形成するのですね」みたいな感じになって、そのあとは、読者(少なくとも自分)はおいてけぼり。

この年輪のやり取り以外は、結構「なるほどな!」と思える部分が多かったのだが、上記の不可解のやり取りの後、
福岡氏は池田氏に対して「先生、ここはこういうことですよね?これで良いのでしょうか?」、池田氏は福岡氏に対して「素晴らしい!その通り!」といったやり取りの繰り返しに。
まるで、どこかの宗教の教祖と弟子のやり取りを読まされているような気分になって、それが「読み心地の悪さ」になったのだと思う。
コンセプトはとても興味深いので、改めて別の形、別の言葉で語り直して欲しいなと思う。