u1row's blog

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知恵の実

「知恵の実」を食べたアダムとイブは自分たちが衣服を身につけていないことに気づいた。
学問的な見解は知らないが、「知恵の実」によって「ないことに気づいた」というのはとてもおもしろいなと思う。

人の知的活動というのは「ないことに気づく」ところから出発するものじゃないか。
別にアダムとイブを持ち出さなくても、一人の人間の成長でも同じじゃないか。
幼少期の保護者の庇護下にある状態は、完全に満たされていて「ないことに気づかない」状態である。
成長するにつれて次第に目をひらいて物事を見るようになると、他人にあって自分にはないものに気づくようになる。
ないものに気づき、ないものを求める。求めた結果、ないものが見つかる、あるいは、ないものを習得する。
これによって満たされるのが知性だ。
貪欲な知性は満足を知らず、どこまでも、ないものを追い求める。
飽くなき好奇心や探究というのは知性の動機と活動のことを言っているのだろう。


人間=知性ならば、これでおしまいだが、
人間は知性だけの生き物ではない。
つまり「ないものを追いかける」だけでは、人間にはなりきれないと言えるのではないか。
だとすると他に何が?


「ないものに気づく」だけでは人間にはなりきれないのなら、
「あるものに気づく」ようにしてみたらどうか。
アダムとイブのせいなのかどうか、とかく「ないもの」にばかり目がいってしまいがちである。
頭のいい人や要領のいい人は、「なかったもの」をすぐに手に入れたり身につけたりするものだから、それが優れた人間のあり方だと思ってしまうが、
これで得られるのは「相対的満足」でしかない。
「人よりもたくさん手に入れたから、ま、幸せなんじゃないか」といった満足。
これは他人との比較の上にしか成立しない、つまり、自分よりも弱い立場に人がいることでしか成立しない満足である。


人はまず「ないものに気づく」ことで前に進み、向上する意欲を持つようになる。これが人間らしさの第一段階=知性の獲得。
次に、ある時期になると「あるものに気づく」ことで、限度を知り、止まることを受け入れるようになる。これが人間らしさの第二段階。
これを理性と呼ぶのか、感性なのか、それとも悟性なのか、学問的なことは知らないが、両者合わせて人間性と呼べるものになるのでは。


凄まじい進化を遂げる人工知能も、人間の知性をモデルにしている間は、人間の知性の代用でしかない。
「人間が知性だけの生き物ではない」ということに十分思いが至れば、つまりここでも、人間が知性以外に「あるものに気づく」ことができれば、
知性の代用でしかない人工知能に人間の存在自体がとって代わられることはないのではと思う。