u1row's blog

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屁理屈

小6の時、担任の先生に「屁理屈をこねる」と評されたことがあった。
とても心外で悔しい気持ちがこみ上げたのをよく覚えている。
なんでそんなことを思い出したのかというと、昨晩ちょっとした親子の諍いごとがあって、その際に娘の言い分を聞いているうちに「これぞまさに屁理屈!そういえば・・・」と自分が子どもだったころのことが蘇った次第。

小6の頃の自分には、どこがどう屁理屈なのかちっともわからなかった。
今になって思えば、昨日の娘と同じだったんだろう。
事実に基づいた客観的な根拠がなくて、言葉の整合性だけで自分の主張を正当化する。
それを「屁理屈」と評されたのだろう、きっと。

でも、自分は娘に「それは屁理屈だ」なんてことは言わない。
むしろ「こんなに巧みに言葉を駆使できるようになったのか」と感心して、そのことを褒めた。
そもそも、「そんなの屁理屈だ」と、子どもに告げることにどんな意味があるのだろうか。
子どもは大人の言葉を習得する途上段階にいる人間だ。
そんな子どもにとって、言葉の組み合わせることで、少なくとも言葉の世界においては、矛盾のない完全な論理を築くことができるというのは、とても大きな発見で、いわば自分を守る「力」を獲得することなんじゃないか。

いずれは、いくら言葉を駆使しても内実が伴っていなければ虚しい言葉あそびにしかならないことに気づくだろう。
でも、遊ばないことには遊びの虚しさに気づくこともできない。
最初から「屁理屈」と一蹴するのではなくて、理屈をこねることを言葉の習得の過程だと認めてやれないものだろうか。
たしかに「屁理屈」を聞かされるのは愉快ではないし、表面的な自己正当化は腹立たしいものでもある。
実際、娘の屁理屈に付き合っているとイライラするのも事実だ。
でも、自分を守る力を獲得するために試行錯誤しているんだと思えば、精一杯背伸びをしているとても健気な姿が浮かび上がる。

結局、小6の頃の自分を正当化しているだけのような気もするが、
娘の屁理屈に対しては、「それは屁理屈だ」と頭ごなし否定せずに、言葉の力を存分に弄んでくれたらと思う。

いつかは言葉の虚しさも感じられるようになってほしいなとも思うが、それはいつ、どういうきっかけで感じるものなんだろう?
自分自身もよくわかっていないことかもしれない。