u1row's blog

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たわけとワークシェアリング

「バカ者!」の意味で使われる「たわけ」という言葉は「田分け」から来ているという俗説があるらしい。実際には「戯け」が正しい語源で、あくまで俗説だそうだが。
なぜ「田分け」が愚かの意味になるのかというと、子どもに田畑を残す時に子どもの人数で田畑を分けて残すと、代を重ねるごとにその面積は小さくなりやがて家系が衰退してしまう。つまり、田畑を分けて継ぐのはイエを衰退させる愚かな行為だということらしい。

この話を読んでふと頭に浮かんだのはワークシェアリング
世代をまたぐわけではないので、同じだとみなすのには無理があるが、「田分け」が「たわけ」であるように「仕事分け」も「たわけ」と言えるか?という問いを設定して考えてみた。

「田分け」が愚かである理由のひとつは、平等を優先させ効率性を犠牲にした結果、等しく貧しくなってしまうところだろう。
その点は「仕事分け」も変わらない。分けることの非効率はどうしても避けられない。
ただ、「田」と「仕事」に違いを見出すとすれば、「田」は全体として増えも減りもしない一定量のものであるのに対して、「仕事」は実体を持たないものなので、全体量が可変だ。
もし「仕事」が常に増加するものならば、「仕事分け」は平等であっても、非効率を意味しない。つまり、ワークシェアリングが「たわけ」でないための条件は、シェアすべき仕事が少なくとも固定されないことだと言えるのではないか。
一定量の仕事をシェアするのではなく、大きくなりうる仕事をシェアすれば「たわけ」ではないということだ。

と、ここまで考えて、ふと考え直す。
この発想は一般に言う「ワークシェアリング」とは大きくかけ離れているような気がする。
どこが?
ワークシェアリングは、そもそもの出発が「痛み分け」だ。
「田分け」は実りの分割、「仕事分け」は痛みの分割。
この違いは、「田」から連想されるものは「労働」と「収穫」であるが、「仕事」からは「労働」しか連想されないというところから来るんじゃないか。
「仕事」から「実り」が連想されない限り、「仕事分け」は「痛み分け」にしかならない。しかしそのおかげで「仕事分け=ワークシェアリング」は「たわけ=愚か」な行為にはならない。

これはある種のジレンマかもしれない。
仕事が収穫と分断されるのを容認するか、ワークシェアリングが「たわけ」となるのを容認するか。