u1row's blog

作曲、演奏、読書、アプリ制作・・・、生きた証を日々更新

『人魚の眠る家/東野圭吾』読了

図書館で借りた本を妻と回し読み。
この後も何百人も待っているみたいなのですぐに返さないと・・・

人の生死の問題に流行りも廃りもないはずだが、「脳」と聞くと、この話のテーマである「脳死」よりも「人工知能」や「脳科学」といったワードが先に思い浮かんぶ。
そういえば、中3だったか高1だったか、テーマ研究と発表の授業があって、なぜか「脳死」をテーマにいろいろ調べた記憶がある。
それくらい「脳死」というテーマは古いということだが、だからと言って解決したわけではない。
脳死判定をめぐる倫理的な問題は解決しない(解決させようのない)まま、クローン技術、再生医療研究、人工知能と、倫理的問題の火種は拡散し続け今日に至っているという感じだろう。

この本のストーリー自体は、『世にも奇妙な物語』の拡大版みたいな感じで、良くも悪くもキレイに締められている。
物語自体よりも、扱っているテーマについて考えさせられたところに読後の満足感を感じた。

あえて感傷的な感想をひとつ
アンリンドバーグが感動したという日本語の「さよなら」。
「そうならねばならぬのなら」という諦めと受容の言葉である「さよなら」は、人の生死、尊厳の根幹に触れる言葉のように思う。
よく「ありがとう」「ごめんなさい」という言葉の価値が言われる。
たしかに人間関係(社会性)という観点で、「ありがとう」「ごめんなさい」はとても大切な言葉だと思うが、所詮は他者との相対的な関係においてしか使われない言葉という気もする。
その点、「さよなら」という言葉は、相手がいればその相手に向けて、相手がいなくても自分自身に向けて発せられる言葉だ。

「さよなら」と言えたから、「さよなら」を聞けたから、だから「もういい」と思える。
人の生死の境に科学も法律も哲学・倫理も一本の線を引けないでいるが、「さよなら」があれば、それが当事者たちにとっては何にも勝る明確な一本の線になるのかもしれない。
・・・というようなことを思った。