u1row's blog

作曲、演奏、読書、アプリ制作・・・、生きた証を日々更新

すり替えた目的であっても

ちょっと気になっていることを考えているうちに、全然関係ない方向に行ってしまった。
とりあえず書き留めておこう。

何かをするのに精神衛生的に好ましいのは、「何のためにそれをするのか」という目的がはっきりしていることだろう。
「何のためにそれをするのか」「何のためにそこにいるのか」という問いに答えられない状態は、人を思考停止へ追い込む。
いや実際には、そういった目的喪失の状態に陥るのは、かなり末期的、危機的な状態で、こうなると思考停止というよりは存在停止の衝動が高まるんじゃないか。

「目的喪失」より前に「目的のすり替え」の段階を考慮すべきかもしれない。
「真の目的」→「すり替えられた目的」→「ゼロの目的」
という3段階を想定してみるのはどうだろう。
でも、そもそも「真の目的」なんてものが存在するのか。
人が抱く「目的意識」は、全て「すり替えられた目的」への志向かもしれない。

「目的」はそもそもフィクションで、人が当座、自分の存在を正当化するために作り上げるものに過ぎないと仮定してみよう。
すると、フィクションすなわち「虚」に過ぎない「目的」には意味がないのか。そうではないだろう。フィクションだから意味がないということではなくて、フィクションなればこそ、そのフィクションは自分自身で築かなければ意味がない。

つまり「何のためにそれをするのか」「何のためにそこにいるのか」という問いに答えるのは自分自身でないといけない。
所詮は、どんな目的を語ったところで、すべて「すり替え」に過ぎない。本当は無意味なのかもしれない。
でも、自分の言葉でフィクションとしての目的を語ってみることができれば、それは同時に自分の存在をストーリーの中に位置づけることに成功したことを意味する。

世の中には、他人の言葉で語られる目的が溢れている。
自分で「すり替えた」目的ではなく、他人に「すり替えられた」目的に向かって歩まされる。これが「思考停止」に陥った状態ではないか。

上手な話し方、プレゼンの方法、人の心のつかみ方など、本屋の一角を見るとうんざりする。いまだに古代ギリシャやローマの人たちと同じような弁論術に精を出して何になるんだろう。
同じことをやっている限り、同じ結果が繰り返される。「歴史は繰り返す」のはそういう意味で必然なのかもしれない。
弁を弄して他人を動かすのではなく、稚拙な言葉でも自分で語って自分自身を動かすことが大切なんだと思う。