u1row's blog

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夫婦、親子

昨晩は妻とちょっとした口論になった。
日本語の「ちょっとした」には、かなり幅がある。
より正確にいうなら「まあまあの口論」か。
日本語の「まあまあ」にも、かなり幅があるな・・・
ともかく、今回一番いけなかったのは子どもがまだ起きていたということだ。はじめ自分の部屋に居たが、言い争いを聞きつけてこっちにやってきた。だからと言って、急に話をやめるわけにもいかない(と、その時は)思って言いたい放題。
しばらく、じっと聞いていた娘が「それは自分も悪いと思う」と割って入ってきた。
「え?」
「だって、○○だもん」
と、お父さんとお母さんがケンカしている原因は自分にあるのだと言う。
その理由「だって、○○だもん」が、まったく的外れで、この口論とはちっとも関係ない。
そのことに感動というのか、とても心を動かされた。
「子どもは親の不仲に疎外感を抱き、親のケンカは自分のせいだと考える」なんて、よく言われることで、言葉としては理解していたけれど、自分の子がまさに自分を悪者にして親の仲をとりなそうとしているという場面に直面して、ピッタリの言葉が難しいが、やっぱり感動した。
「その人の精一杯」は、見当違いでも、的外れでも、健気で美しいものなんだと思う。
さて、そもそもの口論の原因は・・・
妻は「2人の関係は「支配・被支配」の関係で、立場が違うんだ」という。
こっちは支配しているなんて思っていない。
でも、夫の言葉の端々、ちょっとした振る舞いから「~ねばならぬ」という自制を求められるならば、それは被支配だという。
つまり「支配なんてしてない」と言うのは、その立場の違いを自覚すらしていないということの証だということなのだろう。
あとで冷静になって考えてみると(これは妻自身も言っていたことだが)、立場の違いというのは「親と子」だって同じだ。
子どもが精一杯お父さんとお母さんを取りなそうとする姿に感動するならば、妻の精一杯の訴えに対してどうして感動しないのか。

ここで、わからなくなる。
妻がいくら精一杯訴えても感動しなかったのは、立場の違いを自覚していないからなんだろう。
じゃあ、夫婦の仲は、親子の仲と同じように立場の差、言い換えると「力の差」があることを認めるところから始まるものなのだろうか。
「立場の差=力の差」を自覚していないのは、ある意味「対等な関係」を築こうとしているのだとは言えないか?
夫婦とは、歴然とした力の差を前提に、いわば君子が徳をもって国を治めるように、一方が両者の関係をうまく治めるべきものなのだろうか?
それとも、現実社会では必ずしも実現しているとは言えない「男女は対等である」という理念(建前)を実現すべく、力の差・立場の差を解消するように努めるべきなのか?
ま、妻はこんなことを考えてほしいわけではなく、
「そんなことよりも目の前のアレとコレ!!」という気持ちかもしれない。
妻の姿、子どもの姿、自分にはちゃんと見えていないのだろう。
大切な課題だと思う。