u1row's blog

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『偽善のすすめ / パオロ・マッツァリーノ』読了

中をパラパラ見たところ、週刊誌のコラム的に読めるのかなと思って読んでみた。
思ったよりずっと濃い内容で、「へえ」って思う話がたくさんあった。
「偽善」という言葉が、どのように日本に持ち込まれ広く使われるようになったか具体事例とともに書かれていてとても興味深かった。
 
「偽善」は当然ネガティブな言葉だが、言葉自体の定義があいまいなため、明らかな誤用、怪しい用いられ方がはびこっている。
当然、偽善的な振る舞いに対しては批判・非難が向けられるのが一般的だが、'50~'60年代にかけて偽善を積極的に認める議論が登場したらしい。
その後、'00年代ごろまで偽善を擁護する議論はなりを潜め、近年になってそういった議論が少しずつ出てきつつあるのだとか。
 
本の内容とは微妙にズレるかもしれないが、自分なりに考えたこと。
「偽善」に対する批判には、
①何となくネガティブな語感を頼りに、厳密な意味で偽善とはいえない場面でも濫用するパターン
②「みせかけの善」の「みせかけ」、つまり善行の裏に見え隠れする「不純な動機」を批判するパターン
があるように思う。
 
一方「偽善」を肯定する議論としては、次のようなものがあるようだ。
①「みせかけ」であろうと、「動機が不純」であろうと、何かしら善い振る舞いをし、善い結果をもたらすのなら何もしないよりもいいじゃないかという議論
②そもそも、うしろ暗いところが全くない人間などいない。「よく見せたい」という欲求は誰にでもあるものだから、偽善と言われようと自然に任せて振るまえばよいという議論
 
まず、肯定にしても否定にしても「善」が何なのかがあいまいなために、どうもかみ合わず、すっきりしないように感じられる。
善とは、善行のことなのか?それとも行動として表に現れなくても内側だけで成立するものなのか?
また、善とは「悪ではないもの」、つまり「悪」との対比でしか捉えられないものなのか?
そのあたりをはっきりさせると、偽善についての議論も深まるだろう。
 
あと、「偽善」肯定の議論は、どこか化粧談義に通じるものがあるように思う。
スッピンではいろいろと問題があるから・・・・、おっと、やめとこ。
書きかけてやめるのも、偽善だろうか?