u1row's blog

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『友情を疑う / 清水真木』読了

哲学者の言う「友情」は、一般的な意味とはちょっとちがうらしい。

友人というのは「自分にとってかげがえのない」というような私的な存在ではなく、公的な(政治的な)存在で、共同体の利益という共通目標をもちその実現のためのプロセスに参加する「意欲」が友情であり、その意欲を備えたものが「友人」だいう。
この立場で友人・友情を論じた哲学者として、アリストテレスキケロ、シャフツベリが挙げられている。


キケロの項は、キケロが論じた友情論の解説だけじゃなく、キケロの生涯・人となりへの言及もあっておもしろかった。
哲学者の中でも、モンテーニュとルソーは、上記とはちがった「友情論」を展開した。
モンテーニュには、ラ・ボエシーという唯一無二の親友がいたそうで、自身の経験から「友人とは分身であり二人で一人として機能するのだ」と論じたらしい。
なんだか男女の愛情について語っているようにも見えるが、事実モンテーニュの意図とは無関係に17世紀以降、「男女のあいだの友情は可能か?」というテーマがサロンで好んで取り上げられるようになった時に、モンテーニュの見解が頻繁に引用されたのだとか。


ルソーについては、よく言われるように、本人は人格的にいろいろ問題を抱えた人だったそうで、いろいろと手を差し伸べてくれたヒュームへの仕打ちはひどいなと思った。
ルソーが言う友人は「すべてを打ち明けられる、いわば「裸の付き合い」ができ、憐れみ合い慰め合う相手」のこと。
これは、一般的に言われる「友人」の定義に近いような気がする。
ところが、筆者が言うにはこのような友情を公的な空間で押し進めるととても不味いことになるらしい。
フランス革命時の恐怖政治下において「友愛化(フラテルニザシオン)」とは粛清を意味したという。

「親しみ」を強要することは、「親しみ」を持たない者を排除するということで、ルソーの言う「友情」を押し進めることには、この危険が伴うのだと言う。
一方、18世紀以降の市民社会は20世紀に大きく変容し、哲学者の言う「友情」の前提条件となる「公的」な空間はもう存在しないかもしれない。
ということは、「友人・友情」は存在しないってことになる。てことで、アリストテレスの「友人たちよ、友人はいないのだ。」という言葉で締められる。


導入の学校の友人云々というのが、その後の展開と関係ないのに気負ってる感じがして「これ読み通せるかなあ」と心配になったが、読み進めるうちにおもしろくなり、いろいろ勉強になった。

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