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『アウシュヴィッツの音楽隊 / シモン・ラックス ルネ・クーディー著 大久保喬樹訳』読了

あまりに生々しい描写に鳥肌がたった。

アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所ホロコーストの象徴とされる場所で、著者は収容者として約2年を過ごし生還した。
生々しい描写というのは、いわゆる強制虐殺の描写ではない。
著者は入所時に過酷な労働に従事させられたものの、その後は収容者で編成される音楽隊への編入を許される。
音楽隊に属している限り、さまざまな苦役は免除される。
しかもその待遇は、戦況や楽隊長の機転やその他の理由で徐々に改善されていったという。


ということは、良心の呵責がテーマなのか?
どうもそうではないらしい。


名前を持たず、収容時につけられた番号で呼ばれた収容者たち。
しかし、やがて戦況が悪化すると、連行された人たちは番号さえつけられずに、汽車から降ろされるとそのままガス室に直行させられた。
それを横目に楽隊員は日常生活を送ったのだという。
『とにかく、ここの収容者の暮らしはだんだん良くなっているんだ。そしてそれは、外からやってくると番号も付けられずにそのまま火葬場に送りこまれる連中の数がだんだん増えていくのに比例しているんだ。』


この時、楽隊員たちは必ずしも心に痛みを感じていたわけではなかったらしい。
『悔いの心がおこったり、良心の呵責に悩まされるようなことはなかった。私たちにこの屍体の氾濫をくいとめる力はないのだ。それならどうして、こうして私たちに与えられた日々、おそらく地上での生活のしめくくりになるに違いないこれらの日々をできるだけ要領よく利用しない方法があるだろうか』


彼らは、自分たちの特権的な地位も、心地よいとすら感じられる収容所での暮らしも、日々虐殺される同胞たちの存在によって支えられていることを理解していた。収容者が降ろされたあとの空っぽになった汽車には衣類や食糧や奢侈品が残されている。
それを嬉々として漁ろうとする彼ら。
『毎日何万という人間を殺せば、その分だけ彼らの荷物や衣類が手に入るのだ。死んでいく人間はそれぞれ彼らの全財産を置いていくよりほかない。』


なんて正直な描写なんだろう、なんて人間らしいんだろうと思うと鳥肌が立った。
善ではないものは悪なのか?そんなことはないだろう。
正しくないことは誤りなのか?そんことはないだろう。
彼らは、善でも悪でもなく、正でも誤でもなく、ただ人間らしく生きたんだと感じた。
彼らが人間らしく生きるのを可能にしたのは、人間として認められなかったとてつもない数の人々の犠牲によってだった。


さらに、この手記は音楽についての真理も示唆しているように思う。
音楽は必ずしも「美・善」を喚起するためにあるのではない。逆にそのアンチとして邪悪なものと結びつくわけでもない。
ただ音の波動を感じることができる人の精神に何かしらの作用を及ぼすだけ。
音楽を倫理的な価値基準や特定の感情と結びつけるのは人の勝手だ。
そのことが最後の一節、アウシュビッツ収容所の所長のつぶやきに凝縮されているように感じた。
「その言葉が忘れられない」という著者。誠実な言葉だと思う。


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