u1row's blog

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『原発依存の精神構造 / 斎藤環』読了

読み応えがあった。
脱原発という政治的意図を持って書いた」という。
なるほど、政治への関わり方は人それぞれ。
こんな感じで自分の立ち位置を表明したり、問題提起したりするのはいいな、
と好感・親近感を覚えた。

ただ、言ってることは難しくって、よくわからんところもけっこうあった。
たとえば「「フクシマ」を象徴化してはいけない」と言う。
『象徴は反復をはらむ。「フクシマ」が「ヒロシマ」の反復ではないと誰に言えようか』

・・・ん?
悲惨な体験は象徴的な出来事として個人・社会に記憶されるが、
それを「繰り返すまい」という決意の言葉とは裏腹に、
潜在的にはそれを「繰り返させる」ことを欲し、繰り返すような振る舞いをとっている、
ってことを言ってるのかな?


原子力の平和利用」を強力に押し進めた正力氏は、「原子力に関する知識は小指の先ほどもなかった」らしい。
不可解で、現実的には維持不可能な技術なのに、人々を引きつけるのは、その享楽性のためだという。
小指の先ほどの知識で「平和利用」を押し進めた正力氏と、原発依存のメカニズムを知らずに反原発を叫ぶ人は、本質的には同じ。
反原発の享楽におぼれることは、ふとしたはずみで「親原発の享楽」に反転しかねない」。脱原発を実現するために必要なのは「享楽的な闘争ではなく、反-享楽的な交渉である」

・・・これはわかるような気がする。
相反する者どうしは、土俵を共有しているという点では一番親密な関係にある、ってことだろう。

ただ、反-享楽的な交渉となると・・・
「交渉」というのは、そもそも同じテーブルにつくということだから、
一方で「土俵(テーブル)を共有しない」といいながら、「交渉」を目指すというのはかなり難しいのでは?
はじめからスレ違いで、宗教家と物理学者の会話みたいになってしまいそう。


最期の第9章が書かれたのが2012年の3月。
いま現在、著者がどんなことを考えて何をしているのか、続きを読んでみたい。

http://www.amazon.co.jp/原発依存の精神構造-日本人はなぜ原子力が「好き」なのか-斎藤-環/dp/4103140526
原発依存の精神構造: 日本人はなぜ原子力が「好き」なのか