u1row's blog

作曲、演奏、読書、アプリ制作・・・、生きた証を日々更新

『311を撮る / 森達也・綿井健陽・松林要樹・安岡卓治』

読んでる途中でムカついてきたが最後まで読んだ。
著者たち自身が「称賛か罵倒か」と言っている。
ムカつくという反応自体が、彼らの想定内であるということにまたムカついた。

「Survivor's guilt」がテーマだという。
でも、彼らが感じた「うしろめたさ」は「Survivor's guilt(生き残った者が感じる罪悪感)」なのか?
そもそも、それとは違う感情を抱きながら撮影していたのではないかと思った。
オレもホントのところはよくわからないが、たぶんSurvivor's guiltとは、残されたものが、亡くなった者を背負っている感覚なんじゃないかと思う。
例えば、自分の体を休めることに対する罪悪感から、ひたすら肉体にむち打って働き続けようとする感情。つまり「自分は彼/彼女の生を背負って生きている。休息や快楽を自分に与えてはいけない」という気持ちのことじゃないかと思う。

東京からカメラを持ってノコノコ出かけていって、死体を撮影しようとする彼らは、一体誰の生を背負っているのか。
彼らの「うしろめたさ」っていうのは、悲しんでいる人や苦しんでいる人にカメラを向けることに対して、
「こんなことをしていいのか?」「しなければならないのか?」という自問に根ざした「うしろめたさ」でしょう。
それはSurvivor's guiltじゃないんじゃないのか?

映画人なのかジャーナリストなのかわからないが、ある種の職業意識に駆られて「撮らずにはいられなかった」のかも知れない。
それはわからないでもない。
でも職業意識に駆られて、通常の道徳規範から逸脱した行為(死体を撮る)に走るのは、
森達也自身が『戦争の世紀を超えて』で書いていた「アウシュヴィッツでガス室の栓を開閉していたナチス兵」の職業意識とどこがちがうのだろうか?

「カメラ魂は自分の内から湧いてくるもので強制されるものではない、だからナチス兵とは違う」と言うかもしれないが、
「カメラにおさめる。記録を撮る。」という使命を自認して行動する時、その使命が他者に及ぼす影響を無視して敢行し完遂する、という点では
同じじゃないかと思う。

他にも、4人の中の弟分的なヤツの書いてることで、ムカついたところがあったが、
終わらないのでやめよう。

http://www.amazon.co.jp/311を撮る-森-達也/dp/4000230492