u1row's blog

作曲、演奏、読書、アプリ制作・・・、生きた証を日々更新

迂回して帰宅

ちょうど帰宅の時間に、京急で架線事故。
迂回に迂回を重ねて、逗子にたどり着いた。
振替輸送で混み合う電車は、横浜で7割、戸塚で6割、大船で5割、逗子に着く頃には「京急でなんかあったの?ふーん」くらいのモード。逗子の改札を出ると、「花火大会、よろしくお願いま〜す」とビラ配りの声が響いていた。
都内と横須賀を結ぶ経路がいくつもあって、その経路それぞれにカラーがある。
これを、いくつものパラレルワールドが並行していることのアナロジーとして捉えるのはどうだろう?
なんて考えながらとぼとぼと歩いた。
自分の歩く道は、さて何ワールドだろうか。

遺伝か

朝、一本早い電車に乗って、某駅発の電車で座っていくことにした。睡眠不足の自覚があったので、電車で寝ようと思ってのこと。
どうにか座れたのはいいが、いざ寝ようと思うと、なんかもったいない気がする。
少し本を読んでからにしようと、悠々と本を出しヒザの上におく。立った体勢では絶対に望めない贅沢な姿勢。これはいいなと思っているうちに、電車はどんどん進んでいく。さすがに目を閉じないとなんのために早く出たのか分からない。目を閉じてリスニング用の音声を聞く。すると、こっちはこっちで分からないところが気になって寝られない。
結局、一睡もすることなく目的地についてしまった。
眠いくせに、寝られる状況になると寝ない。

うちの子が赤ちゃんのときそうだった。
遺伝だったのか。

「分けても分からないもの」

なんとなく考えたこと。
「分けたら分かるもの」と「分けても分からないもの」の間にあるのは何か。

「分けたら分かるもの」は、現時点の知能で理解可能なものだと言える。一方、「分けても分からないもの」は、その時点の知的能力を超えたものだ。
ある人は「分けても分からない」のは分け方が悪いからだと考える。そうすると、切り分ける場所を変えたり、もっと細かく分けてみたりといった行動があとに続く。
また別の人は「分けても分からない」のは「分ける」ことと「分かる」ことには関連性がないからだと考える。そうすると、分けないで分かる方法を探しはじめるのではないか。

同じことを、ちょっと違った表現で考えてみる。
何かを理解するのは、それを「他と異なるもの」と認識することなのか、「他の何かと同じもの」と認識することなのか。

「分けたらわかるもの」と「分けても分からないもの」の間、あるいは、「理解=他と異なるものと認識すること」と「理解=他の何かと同じものと認識すること」の間。
ここに世界観、人生観、人間性の分岐点があるんじゃないか。
「世の中には2種類の人間がいる。〜」式にまとめると、
「世の中には2種類の人間がいる。何か(誰か)に遭遇した時に「違う」と思う人間と「同じだ」と思う人間だ」

『安倍でもわかる保守思想入門/適菜収』読了

先日読んだ同シリーズの「政治学入門」は、VOW的なノリで電車では読めなかったが、こっちは一応電車で読んでも大丈夫だった(吹き出さずに読めた)。
去年読んだ保守思想云々(でんでん)の本でよくわからなかった「保守とは何か」という話が、この本では、主人公が繰り出すふざけたエピソードのおかげで多少理解できた。

あつい1日

ジッとしていても暑い。

蓋を回しながら、冷たいのにすればよかったと後悔した。
水筒のお茶はいつもどおり熱い。

いつもにも増して混み合う電車で、この状況をひと言であらわす言葉を思いついた。
圧い。

サッと読み切れると思って読み始めた本が終わらない。
厚い。

何を駄洒落みたいなつまんない文を書いてるんだと自問。
いゃあ、つい、、、

連休最終日

日用品の買い出しに出かけるなど、普段の週末と変わらない過ごし方で連休を終えた。
車内で妻と「英語限定でうまい歌を聴きたいなら誰にする?」という話をする。その直前に、ちょうどそのことを考えていたがしっくりくるのが思い浮かばなかった。
聴きたい声といえば、エリスレジーナが思い浮かぶが、英語で歌っている曲が少ない。
次に思い浮かんだのはメイヴィス・ステイプルズ。
申し分のない巧さだけど「ハスキーな声ではなくて・・・」と、わがままに拍車がかかり止まらない。

他にもあれこれ思い浮かべたが決定力に欠けたので、妻に聞いてみた。彼女の答えは、スティーヴィーワンダーの”With a song in my heart”.
たしかに、これは間違いない!
スティーヴィー・ワンダー、13歳。「星に願いを」とか「on the sunny side of the street」なんかも入っている。
そういえば、ずっと聴いていなかった。CD棚から引っ張り出してきてスマホに入れた。
明日、行きか帰りにじっくり聞こうかな。

アートイベント@根津、その後、うな重

某友人を誘い、東京の根津という場所のアートイベントに出かけた。アート空間として作り上げられた、元銭湯「宮の湯」。浴場から裏手の窯場まで散りばめられたナゾを解きながら鑑賞する。

「銭湯が喜んでいる」という友人の言葉に、「なるほど」と思う。銭湯としての役割を終えた場所に、人が戻ってくることに暗示的な意味を読み取るとそのような言葉が出てくるのかもしれない。
役のないもの(者)にも心があり、心は声を生み出す。
「銭湯ではなくなった銭湯」が「アーティストたち」の表現を通して上げた声と、「アーティストたち」が「銭湯ではなくなった銭湯」を通して上げた声が折り重なって響いていたのかもしれない。

この声を受けとめた自分からもひとつ問いかけを発信。ペットボトルで作るロケット、牛乳パックで作るロボットの延長線上に、元銭湯のアートがあるのか。そうではないとすれば、そこにどういう違いがあるのか。
アート、意味、価値の関係性は、自分自身が直面している問題でもある。

その後、この辺りは鰻で有名な場所でもあると友人に教わって、某うなぎ店でうな重を食べて帰った。大好物だが、ここ2、3年食べていなかった。久しぶりの鰻、めちゃめちゃ旨かった。

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