u1row's blog

作曲、演奏、読書、アプリ制作・・・、生きた証を日々更新

『論理的美術鑑賞/堀越啓』読了

これから世の中をVUCAの世界と規定して、美術鑑賞がそのVUCAワールドを生きていくのにどれだけ役に立つかを説く。
VUCAは、Volatility(変動性)、Uncertainty(不確実性)、Complexity(複雑性)、Ambiguity(曖昧性)をまとめたもので、一面的、一義的なものの見方や捉え方では生き残っていけませんよということらしい。
「論理的な」美術鑑賞というのは、3P、3K、A-PESTという著者のオリジナルのフレームワークを適用することで美術作品を立体的に見られるようになりますよと、入門者向けの美術鑑賞法をオススメするもので、方法論の提示だから「論理的」と呼んでいるらしい。
まさに美術素人の自分のような人間に向けられたコンセプトで、3P、3K、A-PESTとも「なるほど、たしかに」と頷きながら読み進める。本書全体を通じて語られている感性の捉え方や、美術鑑賞の意義についてもその通りだなあと思いながら読み終えた。が、なんかモヤッと引っかかるところがある。どこからともなく「そりゃそうだけど、なんか割り切りすぎてない?」という声がする。天邪鬼気質のせいで「完全に納得するのが癪だ」と思っているだけかもしれないが。

世代談義

先日読み終えた『ワイルドサイドをほっつき歩け』に書いあった英米の世代分類で、ベビーブーマー世代とミレニアル(ジェネレーションY)世代の対立、その時ジェネレーションX世代は、という一節があった。
ベビームーマー世代は1946年から1960年代半ば生まれの世代、続くジェネレーションX世代は1960年代半ばから1980年、ジェネレーションY=ミレニアル世代は1980年から2000年代はじめ、そしてジェネレーションZ世代が2000年代はじめ以降に生まれた世代、という風に分けるのだそうだ。英国ではブレグジットをめぐる対立がベビーブーマー世代とジェネレーションY(ミレニアル)世代の対立として単純化した構図で語られることが多いそうだ。それぞれの世代の特徴やブレグジットをめぐる論議を聞くと、日本の世代間の差異とほとんど変わらないなと感じた。自分はジェネレーションX世代だが、英国では現在、ジェネレーションZの親世代としてのジェネレーションX世代が注目されつつあるのだとか。その辺りもまさにジェネレーションZ世代の娘を持つ親として、他所ごととは思えない。

世代談義は「結局は人によるでしょ」となるけれど、同じ時代を生きた者同士が共有する背景色みたなものはあるように思う。例えばいまのコロナ禍も、同じ国民同士が共有する感覚とともに、2020年のコロナ禍を何歳で経験したかという同世代の共通感覚もあるだろう。私は日本人であると自己規定と、私は21世紀初頭の人間であるという自己規定は並列で考えられるべきものじゃないかな。

アウトプット

インプットよりアウトプットをというフレーズはいろんなところで耳にする。
知識偏重、詰め込みはいけない、自分を表現できるようになることが大切だということだろう。
でも、これはnot A but B(インプットではなくアウトプット)ではなく、not only A but B(インプットだけでなくアウトプットも)だということを押さえておかないと、とても乱暴な議論になるだろう。
中身が空っぽだとアウトプットはできない。こうやって駄文を毎日アウトプットするのは、ま、好きでやっているのだけれど、それでもある種修行のようなところがある。
そしてこんな駄文のアウトプットであっても、インプットとアウトプットは表裏一体で、どちらか一方を選択するといったものじゃないことを実感するようになった。

「インプットよりアウトプット」的な議論は、「個性」「自分らしさ」そして「自分探し」といったワードと相性がいいように思う。
「あなたらしさ」ははじめからあなたに備わっている。あなた自身が気づいていない「あなたらしさ」に気づきそれを発揮すれば、周りの人はあなたを認めてくれます。
つまり、自分らしさは最初から備わっているから、それを見つけさえすれば、あとはそれを表現(express(外に出す=アウトプット))するだけという理屈というかフィクション。
これが正しいとすると、たしかにインプットよりも大切なのはアウトプット。最初から備わり、決して損なわれることのない「自分らしさ」さえ見失わなければ、いつでもアウトプットは可能だということになる。
でも現実は違う。「自分らしさ」というものがあったとしても、それは性向、気質であって、それも様々な経験(インプット)によって変わりうるものだろう。それにアウトプットには技術(テクニック)的な側面があり、他の人の表現(アウトプット)を真似ることにより身につけていく、それ自体が長期間にわたるインプット作業によって獲得するものでもある。
さあ表現だ、だと急かしてうまくいく相手もいれば、そうではない相手もいる。アウトプットを促すよりは、インプットのバリエーションを増やす努力の方が効果的なんじゃないかと思う。

『ワイルドサイドをほっつき歩け/ブレイディみかこ』読了

タイトル買い。ルー・リードの”Walk on the wild side”をもじって”Still wandering around the wild side”。
今や60を過ぎたベビー・ブーマー世代のことを言っているのだが、彼らを揶揄するというのではなく、ちゃんとツッコミを入れてあげようという優しいエッセイ。
自身の伴侶がベビー・ブーマー世代の英国労働者階級の「おっさん」だそうでその交友関係や近所づきあいのある人たちのエピソードが、軽妙なスタイルでまとめられている。
軽妙さ、読みやすさのわりに深みが感じられるのは、エピソードに影や哀愁が適量まぶされているのが一つ、もう一つには英国の社会状況が報道ではない言葉で語られているからだろう。
後半の解説編、「英国の世代にはどんなものがあるのか」「英国の階級はいまどういうことになっているのか」はとても興味深かった。

日用品を買いに

日用品を買いに出かける。連休の人出がさかんにニュースで言われているが、横須賀の某ショッピングモールもかなりの賑わいだった。
フードコートは満席、行列。ちょっとまだこの状況で外食はできないなとそそくさとその場を通り抜けたが、休日にこうやって外食することで失っていたものを取りもどした気持ちになれるのはわからないではない。
以前できていたことができなくなる喪失感は、もともとそれができないのとはわけが違う。
喪失感の埋め合わせは、以前できたことやあったものを充填すれば満たされるように思うかもしれないが、実際にはどうだろうか。
以前できたことやあったものではなく別のものを充填しようとする試み、もしくはもともとそれを持っていなかった者に道を譲るのが本当の埋め合わせなのかなぁなんてことを考えた。

感染力

部活のある娘を駅まで送り迎えした以外は外出せず。
世間は連休で予想以上の人出になっているらしい。
日々の感染者数は必ずしも減っていないから、非常事態宣言のころよりも感染自体のリスクは高くなっていると思うのだが。
人の行動は気分に左右されるもので、その気分は他人の気分に左右されるもの。気分の感染拡大力はウイルス以上かもしれない。

偏在から遍在へ

7月末にナラが亡くなってから、毎週末ごとに妻が花びんに花を生けてくれている。
今週は一昨日がちょうど四十九日だった。仏教の習わしはよくわからないが、49日経つといよいよ現世を離れるということらしい。
無邪気の結晶のようなナラには閻魔の沙汰など不要かと思うが、それが決まりならばちゃんと列に並んでいるだろうか、道に迷っていないだろうか、、、
でもきっと、進むべき道を定めたり、歩く順番を決めて列をなしたりするのは人間の性(さが)であって、動物たちの性ではない。
ナラの場合は、好きな時に好きな場所にいる。偏在から遍在へ、それだけのことだろう。