u1row's blog

作曲、演奏、読書、アプリ制作・・・、生きた証を日々更新

棚ぼた

CD棚からアレサ・フランクリンを引っ張り出す。なぜかウチにはアトランティック時代のはなく、あったのはアトランティック移籍前の"Jazz to Soul"という2枚組だけ。
1曲目のToday I sing the blues は大好き。あとはまったく印象に残ってない。今日もとりあえずToday I sing the bluesだけ聴くつもりで、1枚だけ取り込んで家を出た。
ところが、1曲目全然違う曲が流れる。シャッフルになってんのかと思ったが違う。どうやら、2枚組の1枚目と2枚目を間違えたらしい。
仕方ないから、ほぼ初聴の感覚で2枚目を聴く。「仕方ないから」と思ったのは、最初の数秒。めっちゃイイ。
全体通すと散漫な感じはあるけど、バックが控えめな分、歌を堪能できる。イイの見つけたな。

『リスク化する身体/美馬達哉』読了

メタボのリスク、心疾患のリスク、ウイルス感染のリスクなど、人の身体に関わる様々なリスクが医学・公衆衛生の分野で取り上げられるようになったのは、1970年代後半以降なのだそうだ。医学以外の経済や政治その他の分野で「リスク」という言葉が用いられらようになったのも、ほぼ同時期。今では当たり前に使われる「リスク」が「顕在化」したのは、ここ30、40年ということらしい。
確率的に起こる現象で、前もって確率分布がわかっているものをリスク、分布がわかつていないものを不確実性とする定義がある。つまり、リスクには客観性があり可視化されるもの、という共通認識があるということだが、この「客観性」「可視化」というのがクセもので、客観的に見えて様々な意味づけがなされていたり、可視化の内実は単に「見えるものを見ているだけ」だったりする。
3.11とその後に起こったことに象徴されるように、いまリスクは、専門家による確率計算によっても、最悪の事態を想定するシナリオ分析によっても制御できないものになりつつある(リスクの不確実性化)という。
著者が言う「リスクを通じた統治」のあり方が大きな転換点を迎えつつあるということだろう。
この転換の渦中にあってそれを自覚するには、まず「リスク」という言葉を無自覚に使わないことかな。前から自分でも気になっていた。リスクという言葉を安易に使ってるなあと。「懸念」「不安要素」「危険性」など、言い換えられる言葉を考えずに、とりあえず流れで「リスク」と言う気持ち悪さ。
しばらくちょっとこの言葉を使うときに、どういう意味で使っているか考えてみよう。

県立近代美術館へ

葉山にある県立近代美術館へ行った。車でそばを通過することはよくあるが、中に入ったのは初めて。お目当ての展覧会があるわけではなかったので、入館料に見合うかどうか不安だったが、せっかくの連休だからと決断。
たっぷり2時間、ちっとも退屈しない、とても楽しいひと時を過ごせた。
「1937ーモダニズムの分岐点」というテーマで、1937年の日本にフォーカスする。サブテーマは3つ、(1)戦争前夜の日本のモダンアート、(2)1937年に日本で開催された「海外超現実主義作品展」、(3)ロシア革命から20年のこの年、日本の社会主義活動の一端としての映画・演劇活動。
予備知識がないから、十分に理解できたとは言えないが、特に(2)の日本でのシュールレアリズムの受容がおもしろかった。詩人で批評家の瀧口修造、詩人の山中散生が、アンドレ・ブルトンマン・レイやダリとその妻ガラ・ダリと交わした書簡が展示されていた。
(1)の村井正誠、朝井閑右衛門、阿部合成、(3)の村山知義といった名前も初めて知った。
葉山の海に面する立地もすばらしい。レストランはさすがに高そうだったので入れなかったが、いい場所を見つけたなあ。また来よう。

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ムクドリのように

台風の動きを見て、午前中には済ませた方がいいだろうと、
正午少し前に日用品の買い物に出かける。
風はないものの、すでにそこそこの雨が降っている。
階段を下りるときに、電線にムクドリが連なってとまっているのが目に入った。
ムクドリのことはよく知らないが、夕方に群れをなして木に止まっているのをたまに見かける。
でも、午前中に、しかも雨の中で?

これから来る台風に備えて、雨や風がまだマシなうちにエサを探しているのだろうか・・・と想像して気づいた。
これはまさに食料品を買いに出かけようとする自分自身の行動そのもの。
自分の行動を移しかえただけという、自分の想像のクオリティの低さに失笑。

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時そばのような

台風が近づいているというのに、娘は朝から部活に出かける。昼過ぎから降り出し、14時ごろに切り上げて帰って来た。公式試合でもないのに、わかっていながら中止にしない理由がまったく理解できない。
とはいえ、参加不参加は自主判断に任されているのだから、それで参加している以上は、文句を言っても仕方ない。結局、本人が行くと言ったら、それに協力するのが務めと考えるしかない。
そのあとは、習いごとの送り迎え。待ってる合間にコンビニに入り、パン、飲み物その他を購入。
新米らしき要領の悪そうな男性店員。不器用な手つきでバーコードリーダーを商品にかざして「ピッ」てする度に、「1点、2点、3点、、」と商品を数え上げる。
スーパーで「〇〇が1点、〇〇が1点、、、」と言うのはよく聞くが、コンビニの店員もこんなに律儀に声を出すっけ?しかも、「1点、2点、3点、、、」と加算式。全部でいくらかには興味があっても、全部でいくつかには関心ないし。
ま、この店のシステムなのかと思いながら、会計を待っていると、他の客が入ってきた。すると、「いらっしゃいませ」と言う別の店員につられて、レジ係の店員も「いらっしゃいませ」。
「あっ、いまピッてしたのに、「4点」って言わへんかったやん!」って心の中で呟く。
案の定、「ピッ 6点」と言ったあと、レジに表示されてる点数(7点)と一致してないことに気づいて慌てている。
「リアル「時そば」やん」と思って、ひとりニヤける。
今日いちばん和んだ瞬間だった。

個の役割

結核による死亡率は、結核に効く薬の開発(20世紀半ば)よりもはるかに前、コッホが結核菌を発見した(1882年)よりもさらに前から、直線的に低下していたらしい。つまり、近代医学の技術革新と無関係に死亡率は下がっていたのだという。
今日の日本でのうつ病患者の急増は1999年を境にしていて、これは抗うつ剤新薬の販売開始時期と一致しているのだそうだ。つまり、新薬が出ると患者が増えたのだという。
近現代医療はその手柄を誇張し、また人為的に患者を創出している、なんて意地悪な見方もできるが、たぶんそういうことではないだろう。
「近現代医療」という一個の意志、人格があるわけではない。「ある」のはそれに関わる人間(患者も含む)の総意、総体だ。裏で操る黒幕や秘密結社といったフィクションは、総意や総体に一個の人格を重ねて、単純化されたモデルとして理解したいという願望が生み出すものじゃないかと思う。総意や総体は人格ではない。ただ一人ひとりが、その時々の環境の影響下で持った意志や願望が集積すると、そこに偏り、傾向が生じる。その偏り、傾向が何か意志を持ってなされたもののように見えるということなんじゃないか。
ヒッグス粒子の話を思い出した。パーティ会場に有名人が来ると、会場の人間が有名人を取り囲む。取り囲まれた有名人は身動きを制限される。この動きの鈍さが「質量」で、これがモノに質量が備わったメカニズムなのだという。つまり、会場の人たち(ヒッグス粒子)が、有名人(モノ)に、質量を与えたのだと。
うつ病患者の急増は、一部の医者が生み出したものではなく、同じ社会に暮らす全ての人たちの願望の偏りに過ぎない。その偏りを正すかどうかは同じ人たちの意志による。
きなくさい世の中の動きは、どこかの誰か(黒幕)の意志によってではなく、ヒッグス粒子たる一人ひとりの願望の集積によって生じるものじゃないか。

経験と知恵

北朝鮮への圧力強化ってどんな狙いがあるのだろう。相手の挑発に、挑発で応じているだけじゃないのか。そして、挑発の応酬の次に来るのは、暴発しかないのでは?
よく「日本は被爆国として」と言うが、これは「経験したからこそわかることがある」というスタンスを強調するための表現だろう。じゃあ経験から何を学んだのか。当時の日本が太平洋戦争へと向かった過程を考えると、北朝鮮への圧力強化は、かつて自分たちに向けられたものと同じではないかと思わずにはいられないのだが。「経験したからこそ」と言うならば、その経験を知恵に変えて振る舞うべきだろう。「されたこと」を「する」のは、知恵のある行動と言えるか。
ま、これは素人の考えで、プロの目には現在の状況はまったく違うものに映るのかもしれない。
ただ、往々にしてプロの意見というのは、細かな違いにフォーカスして「同じであること」を軽視し、その結果コトの本質を見落としがちなものだ。
韓国政府は「北朝鮮への人道支援を検討している」という。これに対して日本からは公人、私人問わず非難轟々といった感じだが、これのどこがいけないのか自分には今いちわからない。