u1row's blog

作曲、演奏、読書、アプリ制作・・・、生きた証を日々更新

3人寄れば

「3人寄れば文殊の知恵」というのはたしかにあるかもれしれないが、これは「3人」であるところに意味があって、「多数」と読み替えるのはマズイんじゃないかと思う。

斬新な発想は他人を介すほどに陳腐になる。多数の人間でモノを考えるのは突飛なアイデアを排除するためか、追随者を侍らせた独裁者のごっこ遊びとしてか、いずれにしても生み出すモードにはならないだろう。「天才とは小集団現象である」というのは、たしか中井久夫さんの文章に出てきただが、「3人寄れば」の「3人」はそれに通じるように思う。

『「他者」の起源/トニ・モリソン』読了

トニ・モリソンが2016年に行ったハーバード大学での連続講義をまとめたもの。
アメリカ合衆国における人種問題、アフリカン・アメリカンが抱える問題を、当事者であり、作家であり、大学教授でもあった著者が掘り下げ、えぐり込む。
最初の章ですでにこれは自分の手には負えないなと悟った。
著者とその作品についての知識がないだけでなく、初めからこの主題の外側に置かれてしまっている感覚に囚われてしまった。

決してここで語られている問題が自分に無関係だというのではない。
スミソニアンの数ある博物館の中で限られた半日という時間をどこで過ごすかというときに、迷うことなくアフリカン・アメリカン歴史文化博物館を選んだ自分(日本人)。
つまりそこそこの関心は持っていると自負しているのだが、それでもこの本(講義)が要求するハードルは高すぎた。
徒競走が好きな日本人の小学生がオリンピックの100m決勝のレーンに並んでしまっているような滑稽なほどのギャップ。

それでも読んだ甲斐はあったと思っている。
わからないなりに得た知識はあるし、とんでもない熱量を持ちそれを発散しながらも眼差しや語り口はどこまでも冷徹、という使命を自覚している人のオーラは翻訳された文章からであっても十分に伝わってきた。

常連

昼によく利用するカフェで、ついに「いつもありがとうございます」と言われてしまった。

これで喜ぶ人もいるだろうが、そっとしておいてと思う人もいる。自分は完全に後者。

店の人と仲良くなって会話を楽しむみたいなモードならばありだが、コーヒーを飲んで読書をしたいだけのモードなので、「いつも・・・」という言葉は感謝の言葉であっても重たいものを背負わされた感じがする。

他の場所を開拓しようかな、、、それともいっそ「いつものやつ」と言ってみようか。

漫然と過ごすにしても

今朝は特に予定もなく、目覚ましもかけずにゆっくりと起きた。目が覚めてからもしばらく横になったまま読書。
昨晩からそのつもりで、読みかけの本と娘が読んでいたマンガを1冊ずつ枕元に仕込んでおいた。
が、マンガの方は冒頭のツカミがしっくりこず中断、読みかけの本の方は同じ行を二度、三度と反復するばかりで一向に進まずギブアップ。
そうこうするうちに10時近くになってじっとしていられなくなり布団から出た。
ま、それなりにのんびり気分は味わえたので良かったが、漫然と過ごすのにも才能が必要で、自分には絶対にその才能はないなあということを再確認した。

ローカル、ラディカル

今日と明日はセンター試験だという。
来年からは右往左往の新テストが始まるから今年が最後のセンター試験
調べてみるとセンター試験は1990年に始まり今年で31回目。その前の共通一次は1979年に始まり1989年まで11回実施されたそうだ。
大まかに捉えると、昭和最後の10年が共通一次、平成を通じてセンター試験、そして令和に入って1年のずれはあるが新テストとなる。
この偶然のシンクロを「時代の移りかわりに応じて入試制度も変わってきた」と捉えるのは正しいか?

平成は昭和とはまったく違うと考える人には、それと同じ程度にセンター試験共通一次はまったく異なる。
令和が新しい時代だと感じる人には、来る新テストはその名の通り「新」テストだと感じられる。
なんて考えはどうだろう。
ある人たちにとってはまったく新しくもあり、また別の人たちにとっては呼称以外に何ら違いのないものでもある。
いずれにしても日本の元号はほぼ日本でしか通用しないのと同様に、「共通」だろうと「センター」であろうと「新」であろうとローカルルールであることに変わりはない。

元号が変わって気分が高揚するくらいのことなら構わないが、このローカルルールの影響をもろに受ける受験生にはたまったものではないだろう。
その変更いりますか?それ以前にそのローカルルールいりますか?
という疑問は決してラディカルな問いかけではないように思う。

安もの買い

自分が学生のころは「時間はあっても金がないのが学生、金があっても時間と自由がないのが社会人」というようなフレーズをよく聞いた気がする。

今はどうだろう?

前者はそんなに変わらないだろうか?

まじめに授業に出る学生が大半だとか就活で云々といった話を聞くと、「ない/ない」が実情なのかもしれない。

後者は、これは「ない/ちょっとある」という感じじゃないか。

「時間がある」「自由がある」というのはどういことか。

ひょっとすると表面的な意味での時間や自由を手に入れるために、より大きなものを犠牲にしているのかもしれない。

容易に手に入る時間や自由のために価値のあるものを失う。「安もの買いの銭失い」の行動パターンをなぞっている可能性があるかもしれない。

マニロウ効果

ショッピングモールにやんちゃな若者がたむろして困る場合に、『バリー・マニロウ グレイテストヒッツ』を店内BGMに流すとやんちゃな子たちは居つかなくなる。

これを「マニロウ効果」と呼ぶのだとか。

名前そのまんま使う遠慮のないネーミングに笑ってしまった。

バリー・マニロウ、知らなかったがなかなかのヒットメーカーらしい。

若者を追い払う効果に自分の名前をつけられて抗議しなかったのだろうか?

それとも、根っからのAdult-Oriented系で「むしろやんちゃ坊主は聴かなくて結構」というスタンスなのだろうか?

そんなことを考えていると「マニロウ」という語感まで何となくおもしろく感じてくる。

これも「マニロウ効果」か。