u1row's blog

作曲、演奏、読書、アプリ制作・・・、生きた証を日々更新

主体的な語り手への転換

昨日の続き。
「教養」というのを皮肉的に捉えると、「エジソンはえらい人」という認識、プラスαの豆知識(エジソンが実用化に成功した白熱電球のフィラメントは日本の竹だったみたいな)に過ぎない。でも、他者や他者のワザは、いつも初めはこういう寓話として受け入れられるもんなんじゃないか。
「マネの絵は寓話的であることをやめた点で革新的である」というのは教養レベルの話であって、マネには何がどう見えたのか、なぜそのようにタブローを描いたのかを想像したり考察したりするところから、専門領域あるいは創作領域に入っていくのだろう。それもまた寓話の一部かもしれないが、読み聞かされる側ではなく、主体的な語り手への転換がそこにあるんだろうなと思う。

物語と教養

一昨日の続き。
読みかけの本によると、エドゥアール・マネ(1832-1883)の革新性は、「マネとともに絵画は寓話的であることをやめ」た点にあるのだという。
このような解説自体が物語的で、マネを絵画史という物語に登場するヒーローのひとりとして見るならば、マネの絵そのものに寓話的なところはなくても、「マネの絵」を寓話の1シーンとして追体験することになるんじゃないかと思う。
これは別にいけないことではなくて、偉人であれ凡人であれ、他者とその他者の手によるものは、どんなものでも初めは物語として受け入れられるんじゃないか。
物語として受けれられたものが物語のままで終わるならば、その物語はせいぜい「教養」にとどまる。

いまでもあるのか知らないが、ちびまる子ちゃんの主題歌で「エジソンはえらい人、そんなの常識」という歌詞があった。歴史という物語で語られるのは、まさにこの歌詞のとおりで、出てくる人たちは出てくるというだけで「えらい人」なのであって、えらい人の名前とその人にまつわる豆知識を覚えることが悲観的(皮肉的)な意味での「教養」というもんなんだと思う。

切り取り方

感染者数がかなり増加している。

緊急事態宣言が解除されてから「若者の感染者」「夜の街」という言葉が多用されるようになったのが気になる。

事実なのかもしれない。ただ事実は切り取り方によっていかようにも表現されうる。この事実(事実だとして)の伝え方に、いわゆる自己責任論的なニュアンスはないだろうか。

感染者が若者であろうが、飲み会参加が原因であろうが、クラスター感染であろうが、そのことで感染拡大(いわゆる第2派)の可能性を低く見積もることはできないんじゃないか。火のないところに煙は立たない的な発想は、コロナについては避けるべきだろう。

「若者の感染者」「夜の街」というフレーズを聞くと、「若者」や「夜の街」に責任を押しつけるのは違うだろと感じる。

ひっかかり

「言葉で同じことを言うことができるようななにものも絵画の中では表現しないという決心を意味する」
なかなか進まないなりに少しずつ読み進めている本の一節。エドゥアール・マネ(1832-1883)の革新性について書かれたもので、「マネとともに絵画は寓話的であることをやめ」たのだそうだ。
「寓意的であることをやめ」たというのは、聖書などの言葉として書かれたものあるいは語られるものの一場面を切り取って絵画として示したり、描かれるアイテムに寓意を含ませたりすることを避けたということで、そういった解説とともに見るとなるほど革新的だったかもしれんなあと思う。
でもなんかモヤモヤして、なんかひっかかるなと思う自分がいる。考えがまとまらん。何にひっかかるのかもうちょっと考えてみよう。

ドラゴンポテト

先日ドラゴンポテトというのを食べた。娘が買ってきたのをちょっとだけもらったのだが、とても美味かった。
年をとると保守的になるというが、たぶんそれを自覚をするのは難しいんだろうなと思う。
そんな中、たしかにこれは保守的かもなと自覚できるのはスナック菓子の選択。なかなか新しいスナックには手が伸びない。
思い返せば、じゃがりこあたりから新しいのよりクラシックなのがいいと思い始めていた。じゃがりこは1995年発売らしい。21歳で保守化しはじめてたのか、、、
ドラゴンポテトはブレイクスルーになるか。

語感の気持ち悪さ

「美術館女子」という企画が猛批判を受けて、サイトを閉鎖したという記事を見た。
「○○女子」というフレーズ自体、「薹が立った」という言葉と同じくらい期限切れのフレーズなんじゃないかと思うが、この言葉が盛んに流用されていた頃から気持ちの悪いフレーズだと思っていた。
ついでに言うと「イクメン」という言葉も同じくらい言い古されているが、これも初めて聞いた時から絶対言いたくないと思っていた。

美術館女子については、「若い女性を“無知”の象徴として扱っている」という批判があるそうでなるほどなと思う。一方「企画者側のおじさん目線」が透けて見えるのがアウトだといった意見には、勝手に「おじさん目線」を見てとるセンスは、美術作品の前に女性アイドルを置くセンスと同じなんじゃないかと思う。
本当はとても多様で、多様なものの一つ一つが深くて重くて、時に暗いものであることがわかっていながら、それを「〇〇女子」といった軽くて明るい装丁で偽っているところが気持ち悪んだろう。表紙と中身があってませんよと。つまり男性とか女性とかジェンダーを持ち出す以前の気持ち悪さが自分には大きい。

初蝉の音

午後は雨が上がり、夕方はほんの少しだけ晴れ間も見えた。
妻が突然「いま生まれた!」とナゾの言葉を発して、窓を開けてベランダに出る。何かと思えばセミ
初蝉の声のことを言ったらしい。
初蝉というと風流な感じがするが、「いま生まれた!」と言う妻の声の憎々しげなトーン。
ジージージーと鳴く初蝉。以前は、これを「声」と呼ぶことにそんなに違和感はなかったが、妻と娘が毎年のようにベランダや階段に横たわる蝉に絶叫するのを聞くうちに、いつしか蝉の「音」と思うようになった。ノイズ、それはセミの音でもあるが、二人の絶叫でもあるような気がする。