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u1row's blog

作曲、演奏、読書、アプリ制作・・・、生きた証を日々更新

先輩・後輩

この四月で子どもが中2になった。本人からは特に何も聞いてないのでどんな感じなのかはわからないが、学校からの通信などによると、「中2に進級する」=「後輩ができる」というのが非常に重要なことらしい。
「後輩に範を示す」「年長者として恥ずかしくない言動」などと、もっともらしい言葉を目にしたり耳にしたりすると、自分のことではないのに、むくむくと反発心が頭をもたげる。
「たった1年先にいる」というだけで、模範となれるのだとしたら、そこで求められている範のレベルは相当低いんじゃないか、、、という嫌味が頭をよぎる。
が、もっと本質的な嫌悪は、これが管理の手段として利用されているように感じることから生じる。
年長者が年下の者に抱く感情はごく自然なものかもしれない。でも、これを「先輩・後輩」という構図に組み込む時、そこには、組み込む主体、つまり管理ツールとして利用する主体の意図が見え隠れする。
反発の対象はこれだ。
先輩になったというだけで後輩に偉そうにするのは醜いが、そんな個人の態度の醜さよりも、ある種の仕組みに乗っかっていながら、そのことに気づかない愚鈍な感性、そしてその先輩を範とするしかない後輩の不幸の方がずっと問題だろう。不幸を再生産する仕組みが既成事実化し、自動化して、誰にも止められない暴走車と化す可能性がある。
ま、「先輩・後輩」文化には良いところもたくさんあるというのはわかる。が、前提として「長幼と優劣は別」という共通認識、少なくとも年長者にその意識がないと、うまくいくかどうかは、偶然に左右されることになる。
きっと中学に限らず、世の中のいろんな組織に当てはまることだろう。

迷惑ありがた

久しぶりに7時間睡眠
曲のモチーフの撮りだめしたかったが、今日は片付けをしなければならないのでお預け。
GW週の真っただ中、5/1に娘の中学の担任が家庭訪問にやってくる。
一家そろって片付けが苦手なので、こんな機会でもないと一生部屋の中は片付かない。
「ありがた迷惑」というか「迷惑ありがた」な訪問だと考えて片付け開始。
最初から分かっていたことだが、今日1日では終わらない。
来週の連休前半もこれで1日潰れそうだ。

レイアウトの妙 (妙なレイアウト)

娘のダンス教室の特別講座の申し込みに出かける。
希望のコースは先着数名。
受付時間の20分前に到着したがすでに何人も並んでいて、結局定員に枠には入れずキャンセル待ちになってガッカリ。

順番を待っている時に目に入ったボード。
このセンス、なかなかのオリジナリティだと感心してしまった。
「今 の ャ ペ ン 月 キ ン ー」としか読めない。
真っ先に目に入るのは「月 キ ン ー」

 ・上下ジグザグに読ませる
 ・「キャ」の読みは下から上
 ・一枚一枚の紙をわざわざ八角形に切り取っている

全てに必然性がなく、感覚の逆を行く。
「何も考えずにやるからこんなことに・・・」という批判は当てはまらないんじゃないかな。
だって何も考えずにやったら絶対こうはならないだろうから。

たしかに、ボードに注目を集めて「何だろう?」と思わせる効果はあるかもしれない。
でも、肝心の下の広告には全く目線がいかない。
そっか、いっそ下の広告チラシも同じ思想でレイアウトしたら、みんなの目線が釘付けになるのでは。

 ダ ス 室 会 3 0 円 
  ン 教 入 費 0 0   
みたいな。

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ペットボトルのキャップ

今朝、冷蔵庫に入っている2リットルのペットボトルのお茶を開けようとして、あれっと思った。キャップがやけに固く締まっている。グッと力を入れてひねりながら、思い出した。昨日、自分が意識してあえて強く締めたんだった。
理由は、いつも妻に文句を言われるから。
自分でもどうしてなのかわからないが、ペットボトルのフタの締め具合がいつも甘いらしい。
「またユルイ!」と文句を言われて、「あ、そうだった」と思い出す。
他のことはなんでも力任せで、ムダに力んでしまうのに、なぜペットボトルだけ、、、
ただ、そんなに大したことじゃないだろうという気持ちもあって、文句を言われたら「そんくらい、いいやん」などと言い返す。だからいつまでたっても治らない。

昨日はたまたま締める時に思い出したからあえて渾身の力で締めた。
「そうか、それで固かったんだ」
納得がいって、お茶を飲んでペットボトルをしまい家を出た。
しばらくして電車の中でふと思い出した。
「さっきしまう時、固くしめたかな?」
ほぼ無意識にしまったから、間違いなくいつも通り、つまりユルイはずだ。
ということは、次に妻が開ける時に、「またユルイ」と思うだろう。昨晩あんなに固く締まっていたのに、そのことを妻は知る由もない。

ちゃんとやったのに認められないと悔しがる子どもの気持ちがとってもわかる気がした。同時に、いつもやらないと意味ないでしょ、とたしなめる親の気持ちもとってもわかる気がした。

どこへ?

某懇親会で、都内某所で食事とお酒。
先週金曜にワインを飲んで以来だから、1週間に2度アルコール摂取なんて何年ぶりだろう。
帰りは駅からとぼとぼ歩いた。
暗い夜道を歩きながら「どこへ?」と問うてみる。
家に帰るのに違いないが、家は起点であっても終点ではないんじゃないかなあと思って。
そういえば、『Quo Vadis(どこへ?)』ずっと読もうと思っていてまだ読んでないな。
映画もあるらしいから、映画を先に見てみようか。
そんなことを思っているうちに家に着いた。

『エピソードで読む西洋哲学史/堀川哲』読了

デカルト以降の20人ほどの哲学者を取り上げて、エピソードと思想を簡潔に紹介する。
先日、同じように画家のエピソードと代表作品を紹介している本を図書館で借りたが、あまり読まないうちに期限がきて返してしまった。とてもおもしろかったので、また読みたいなと思う。
たまたま借りた2冊の本。哲学者、画家という違いはあるが、生前のエピソードで魅くという点では同じコンセプトだと言える。でもどこか読んだ感じが違っているように思われた。
哲学者の方が人生における様々なエピソードと作品との結びつきが強いのではないか。
もちろん、書いてることとやってることが正反対という話もあったが、それだって、同じ物差しで測ってこそ「正反対」と言えるのだから、やっぱり結びつきは強いということだろう。
Philosophy of lifeは「人生観」と訳される。つまり哲学は、ある種の人生観だと考えれば当然のことか。
一方、画家のエピソードは、その人のエピソードである必然性が低いように感じられた。芸術は人生観と関係なく生み出されるものだと言えるかもしれない。

某ニュースをみて

教育勅語を教材として活用するかどうかは、学校に委ねられるのだという政府の答弁。
とっくの昔(1948)に廃止されたものに、現在の教材として活用される余地があるとすれば、せいぜい古典や歴史の授業で資料として取り上げることくらいだろう。
そんなあたり前のことを、あえて明確にせず現場に判断させるというのは、誤った活用を誘発する、あるいはそれをむしろ期待しているのではないかと思われる。
仮に、問題が起こっても、それは学校もしくは一教師の問題でしかないということか。
責任の所在がはっきりしない気味の悪い状況が生み出されつつあるんじゃないか。
憲法を変えたい理由のひとつは、時代に合わないからではなかったっけ?
「朕おもふに」で始まる文章に時代を超えた普遍性を感じる人たちが、恒久平和を謳う文章の普遍性は認めないのはなぜだろう。