u1row's blog

作曲、演奏、読書、アプリ制作・・・、生きた証を日々更新

ムシボシに

「ムシボシにお付き合いください」、米朝の落語に出てきたのだが、これまでなんとなくモヤモヤしながらも、形容動詞で「適当に」くらいの意味だろうと聞き流していたが、調べてみるとまったく違った。

「虫干し」、タンスや棚にしまった衣服や書籍を日に当てて、虫の害やカビを防ぐこと。つまり、米朝の言う「虫干し」というのは、他の噺家が誰もしなくなった古い話を文献などから引っ張り出してきて披露することを指しているらしい。

「あんまり古い話だから、説明しないと何がおもしろいのかわかりませんが」という前置きは、そのことを言っている。

「引き出しの奥から昔の話をひっぱり出してきました。どうぞ聞いてください」というのを「虫干しにお付き合いください」と。イキだなぁ。

アップルクランブルパイ

ワケあって、というほどたいしたワケでもないが、いつものショッピングモールではなくて汐入で日用品の買い物。
敷地内のスタバで、実はちょっと前から楽しみにしていたアップルクランブルパイを食べることに。
窓際の海(軍港)を見渡す席が空いていたので、そこに座ってしばし休憩。
アップルパイは「9月の新作」とのことだが、去年か一昨年、何度か食べてお気に入りだったので「リニューアル」じゃないかと思う。
シナモンはキライだけど、ここのアップルパイはシナモンがちっとも気にならない、というかむしろ良いアクセントで「ひょっとして実はシナモンの風味が好きなんじゃないか」と錯覚しそうになる。
ひとつだけ残念なのは、このアップルパイに限ったことじゃないが、外で食べるケーキは小さい。
大きく贅沢にカットされたリンゴがゴロゴロと入っているのに、それをフォークで切り分けながらちまちま食べるのがなんともワビしい。
茶の湯ではなくコーヒーを飲むのだから「ワビサビ」は無用なんだけどなあ。
パイだから手づかみで3カット分くらいいっぺんに食べてみたいなあ。
でも、この16分の1だか20分の1だかのカットが480円だから、とてもとても、、、

体育祭

娘の中学の体育祭に出かけた。昨日の雨で今日に順延。今日も早朝は雨だったが、始まる頃にはどうにか止んで体育祭日和、というか観覧日和。観る側としては、今日みたいな曇り空が一番ありがたい。去年は日陰を陣取ったつもりが、時間がたつにつれて陰が無くなって、日陰を求めてさまよったことを思うと今年は快適。

それにしても、あっと言う間に中3、最終学年。子どもも大きくなったが、保護者の変貌ぶりもなかなかのもの。

うちは幼稚園からずっと地元なので、幼小中とイベントのたびに同じ顔触れの保護者と顔を合わせることになる。幼稚園生のパパ、ママが、今や中3生の保護者。子どもたちがこれだけ大きくなったのだから、同じ期間を過ごした保護者だって変わらないわけがない。背が伸びない分、シワを深く刻む。これも成長なのかな。

レトロニム

「在来線」のような言葉をレトロニムと言うそうだ。新幹線ができた時に、それ以外のもともと走っていた路線を全部ひっくるめて「在来線」と呼んで「新幹線」と対比させた。

新しい概念が生まれることによって、もともとあったものが「旧来のもの」として「新たに」概念化され命名される。これがレトロニムだという。「古いものが新たに生まれる」というのがおもしろい。

そういえば、「現代」はいつまで現代なんだろう?

「いつから」という問題もあるが、一般的には第二次大戦後を境に「近代」「現代」と変わると考えて構わないだろう。でも戦後ももはや70年を超えている。10年過ぎた時点で早くも「もう戦後じゃない」と言ってたのだから、現代を「戦後」という言葉だけでカテゴライズするのはかなり厳しくなっている。

はたして「もはや現代ではない」と思う瞬間が来るのだろうか。また、「今」が「現代ではない」と感じる時、「今」をなんと命名するのだろう?

いや、逆か。

今を改めて「現代」と呼びたくなった時に、それまでの現代をなんと命名するか、それがレトロニムだな。

固まった

「いま(駅名)、(時刻)の特急に乗ります」とウチ宛にLINEを送ったら、一瞬で返信が届いた。

え、ん???あれ????

1.5秒くらい固まった。画面ではなく、自分が。

 

LINEしたつもりが、ブラウザの検索バーに入力してた。一瞬で届いたと思った返信は「いま(駅名)、(時刻)の特急に乗ります」の検索結果だった。

ちょっとお疲れ気味。

ギターという楽器は

「ギターという楽器は、単体でプレイすることもできて、ほかの伴奏楽器を必要としていない。これは自己中心的な楽器であるという意味ではなく、君に寄り添ってくれる楽器だと言うことだ。孤独な時はギターをプレーすればいい」

先日読んだギターマガジンのインタビューでアーネスト・ラングリンが最後に語った言葉。これにひどく感動した。「そう、ギターってそういう楽器だよね」と。

でも、考えたらピアノだってソロでプレイできる、ほかにも伴奏がなくてもいい楽器はたくさんある。ピアノは君に寄り添ってくれないのか?

たぶん結論としては、ソロ向きの楽器であるかどうかを問わず、楽器全般、自分自身と向き合う媒介、つまり孤独に寄り添ってくれるところがあると言えるだろう。

ただ、ピアノと比べた時、ギターの方がずっと粗野、楽器として洗練されていない。その分、演奏者のアプローチの自由度が格段に高い。弾き方、押さえ方、チューニング、自分好みに楽器を調整する余地がいくらでもある。一方、ピアノは楽器としての完成度が高い分、楽器の仕様に自分が合わせる度合いが高い。

そう考えると、やはりアーネスト・ラングリンの言葉がいっそう輝きを増す。ピアノは、はじめからそこにあって、どこかからやってきた演奏者がその前に座る。寄り添うのは演奏者だ。でも、ギターは演奏者がそこにいて、ギターは傍らで静かに待っている。そういう楽器なんだろう。

心のサングラス

人は心にいくつかのサングラスを持っていて状況に応じてそれを掛け替えているんじゃないか。

昼にコーヒーを飲みながら読んでいた雑誌からふと顔を上げた時にそう思った。ほんの10分ほど前とはまったく違って、目に映るものがどことなく色あせて、その分輪郭がくっきりとしているように感じられた。

「こんな風にモノが見える時がある」→「今の感覚の時にはこんな風にモノが見える」→「まるでサングラスを掛け替えたようだ」→「心には掛け替えられるサングラスがあるのかもしれない」

「色メガネで人を見るな」と言う。他人と接するときは、心のサングラスは外した方がいいってことか。