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u1row's blog

作曲、演奏、読書、アプリ制作・・・、生きた証を日々更新

横浜で昼食

子どものダンスレッスンの付き添いで横浜へ。
レッスンのあと昼食を食べて帰ることに。
某レストラン街の案内板には、和、洋、中、エスニックといろんな店の案内とそれぞれのオススメのメニュー写真が出ている。
ハンバーグとかオムレツとかが美味しそうだなあ、あとはパスタかなあと思って眺めつつ、やはりここは子どもと妻に任せるべきと、「どこでもいいよ」と言う。

で、子どもが選んだのは某韓国料理店。
それも焼肉ではなくて、チヂミが食べたいのだという。
たぶん、美容大国・韓国にとても憧れているので、その流れで選んだんだと思う。
それにしても、ハンバーグ、オムレツ、パスタを制して、「チヂミを食べたい」という感性は、自分の中学時代を思うと信じられない。

でもチヂミはうまい。
実際、ランチセットは値段はリーズナブルで量はめちゃめちゃ多い上にすごい美味しかったから、子どもの選択は正しかった。
自分の味覚が一番子どもっぽいのかな。

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スライドかどうか?

近所のスーパーマーケットに買い物に出かけた以外は家で過ごす。
BGMでよかったのは、Jesse Ed Davisの”Keep me coming”。
この人のギターには本当にシビれる。
乾いたサウンド、トーン、リズム感、すべてが渋い。
実際に弾いている映像がほとんどなくて、Taj Mahalのバックで弾いているものくらいしか見たことがない。
スライドギターの名手と言われているが、映像ではスライドを使っていない。
アルバムで聴く音は、たしかにスライド然としているが、
スライドを使わないソロの音の揺らし方が、かなりスライドギター風なので、そもそもスライドは使わないんじゃないのか?と密かに思っている。
でも、さすがにShe’s a pain はスライド使ってるかなあ?

カール

カールが関西以西限定になるというニュース。
売り上げ不調が理由なんだとか。じゃあ関西では売れてるのかというと、そういうことではないらしい。ある意味、これも話題性とレア感を狙った販売戦略なのかな?

たしかに子どもの頃はちょくちょく食べたごが、成人してから買った記憶はない。
カールといえば「うすあじ」が一番おいしいと思っていたが、これは関西人の好みで、関東では「チーズあじ」が一番人気なんだとか。

味は好きなんだけど、買って食べようと思わなくなつた理由の一つは、空気がほとんどで食べた気がしないこと。これはスナック菓子全般がそうかもしれないが、何か周りをコーティングするものや、中に少し密度が高めのものが入ってたら、食べごたえが出てよかったかも。

もう一つは、食べた後に上あごや歯にまとわりつくこと。
小さい子どもが砂場で泥遊びをするのは、遊んだ後のことを気にしないからで、やがて、「あとで面倒だとか不快だ」とかと考えるようになると、泥遊びをためらうようになり、そのうちその楽しさも忘れてしまう。
カールも、食べる前から食べたあとのことを考えるようになってから買わなくなり、「うすあじ」の美味しさも忘れてしまった。
もう少し粘度を落としてパリッと感を出したらよかったのかも。

二層構造で、さらにコーティング付き、粘度を落としてパリッと感のあるカール。
そんなカールはカールじゃないか、、、
きっと日夜研究してる人たちが、カールがカールであるためにできることをやり尽くした結論なんだろう。関西に行く機会があれば食べてみようかな。

『戦争まで‐歴史を決めた交渉と日本の失敗 / 加藤陽子』読了

ここのところ本を読む時間が取れず、遅々として進まなかったが、ようやく読み終えた。
時間がかかったからといって、「つまらなかった」とか「難しすぎた」ということではない。
むしろその真逆で、毎日少しずつ読み進めるのが楽しみで読み終えるのが惜しいと思ったくらい。

28人の中高生への講義をベースにいて、日米開戦に至るまでの諸相をわかりやすく、時に聞き手(読み手)の想像力に訴えかけながら解説していく。
第4章の開戦前夜、日米交渉を担った野村とハルのやり取り、両国の思惑の変遷そして思惑に反して開戦にいたった経緯は、冷静な気持ちでは読めなかった。

歴史をネタにワクワク・ドキドキを醸成するのはある意味とても簡単で、いわゆる「俗説」を「歴史の裏事情とか真相」などと通ぶって語れば済むことだろう。
この本の凄さは、そういった類の「俗説」を史料に基づき一蹴しながら、俗説が醸す以上の面白さを提示してくれているところだと思う。
きっとこれが本当の意味で歴史を学ぶ面白さなんだろうな、と思いながら読んだ。

秀吉が、家康が、、、と戦国武将の野望や立身出世にロマンを抱くのも歴史のおもしろさなのかもしれないが、
「現在の社会」「いまの自分」を映す鏡としての歴史にもっと光があてられれば、歴史という学問自体の意義が変わり、「歴史が教えてくれる唯一の教訓は、人は歴史から学ばないということだ」という皮肉が意味をなさなくなるのではないかと思った。

職業体験

6月に予定されている、娘の学校の課外授業「職業体験」。
様子を見ていると、3日間の体験より体験先を決める交渉の方がずっとハードルが高そうだった。
学校から体験先への事前の根回しなどは一切なく、本人が直接興味のあるところに電話をして「受け入れてほしい」と交渉する。
娘は、ようやく某雑貨店に決まったが、決まるまでに何軒も断られた。
ある男の子は、京急の駅を片っ端から20駅ほどかけてすべて断られ、まだ決まっていないらしい。
3駅くらいで「これは脈がないな」と見切りをつけて別の道を探った方がいいように思うが、中学生にもなると、こういう場面でどう行動するかにそれぞれの個性が反映されるのかもしれない。


いい経験にはなるだろうと思う一方で、
学校には「体験することに意義がある」的な発想以上の目的や意図が何もないことに唖然とする。
体験先を決める交渉がうまくいった生徒には「よかったね」、
うまくいかない生徒には「がんばれ」以上の言葉が何も用意されていないらしい。


トーリーのない経験は、「快、不快」のいずれかとして記憶されるだけだ。
何十件も電話をかけて全部断られるという経験は、子どもたちにとっては間違いなく不快な経験だろう。
こういった不快な経験が言語化されずに心にとどまると、場合によってはトラウマとして長期にわたって本人を苦しめることにもなりかねない。
子どもが自分自身で言語化できる(経験を総括できる)のなら問題ないが、そうでない子たちもいる。
先生たちが、不快な経験を言語化(総括)して、次に生かせる経験として語って聞かせることも必要じゃないかと思う。

見た目はカリフォルニア、気分はミネソタ

先日の訃報があったからというわけじゃないが、
最近Soundgardenの曲をちょこっと聴き返している。
今まで知らなかったが、“Outshined”に出てくる歌詞で、当時この曲がきっかけになって流行語になったフレーズがあるのだそうだ。
I'm looking California
And feeling Minnesota

カリフォルニアに見えるけど、
気分はミネソタ

何度も聴いていたが、どういう意味かなんて考えたことがなかった(この曲に限らずいちいち歌詞を見たりしない)。
でも、考えたら不思議なフレーズだ。
当時、このFeeling Minnesotaというフレーズが流行って、映画のタイトルにもなったのだそうだ。
’96年制作で、キアヌ・リーブスキャメロン・ディアス主演のロマンティック・コメディーとのこと。

歌詞の意味は、ネット上の情報を拾い集めると、
ミネソタをツアー中のChris Cornellが、鏡に映るTシャツに短パンの自分の姿を見て、
「カリフォルニアのビーチにいそうな悩みごとゼロの奴みたいだ」と思ったそうだ。
カリフォルニア=1年中温暖 / ミネソタ=極寒
の対比で、自身の見た目と中身の落差を比喩的に表したのだそうだ。

自分がよく知っていると思っている曲でも、音楽という括りを超えた文化的な広がりを持っているということに気づかされた。
“Feeling Minnesota”も、これから見たい映画の候補にしておこう。

ドラえもんとメアリーの部屋

ドラえもんひみつ道具で、食べものの写真を見ただけで満腹になる道具の話があった。名前はなんだっけ?「グルメテーブルかけ」は実際に食べるから違うし・・・


Mary’s room”という思考実験があるというのを知った。
「モノクロの世界しか知らないメアリーが、突然フルカラーの世界を目にしたらどうなる?」
という問いかけ。
前提としてメアリーは視覚の神経メカニズムについてあらゆる知識を持っている人物とする。
色を認識するということに関してありとあらゆる知識を持っているが、ただ一点、白黒以外の色を見た経験がない。
そのメアリーが、ある日赤い果実や青い空を見た時に、そのことは彼女にとって新しい学びになるのかどうか。
もしメアリーが何か新しいことを学ぶとすれば、科学的な知識だけでは説明し尽くせない何かが存在するということになり、
クオリアの存在を示唆することになるらしい。


この話を聞いて思い出したのが、冒頭のドラえもんひみつ道具
ひみつ道具は基本的に「できたらいいな」の世界だから、裏を返すと「(少なくとも現在の)現実世界ではありえない」ことを描いている。
料理本を見るだけで満腹になるという道具は、「料理本=知識」「満腹になる=経験・実体験」と置き換えると、
「知識だけでは、経験したことにはならない」というのが常識的な感覚であることを表している。


でも、もしひみつ道具が本当に開発されたらどうなるだろう。
道具でなくても、ある種の薬物によって視覚のみで満腹を感じさせるということは、ひょっとしたら可能かもしれない。
感覚の上では、知識と経験・実体験の間に全く差がない状況においても、経験・実体験は新たな学びと言えるか?


「学び」と呼ぶかどうかはわからないが、差があることはたしかだろう。
実際にモノを食べた場合、栄養価なり何なり、何かしらの物質が体に入り、体内ではさまざまな化学的な反応が起こる。
薬物などでその経験と同じ感覚を完全に再現したとしても、それは仮想シミュレーションであって、実在の物質によって引き起こされたものではない。
もっと単純に、食べ物の知識では体重は増えないが、実際に食べるとその分だけ体重が増える。


さて、フルカラーを初めて目にしたメアリーが何かを学んだのかどうか。
これは、メアリーが「学んだという感覚を持った」というレベルの話と、「物質的な何かを獲得した」というレベルの話で区別すべきかもしれない。
前者のみで考えると、常識的な感性には合致するが、人の感覚は騙されやすいという事実が見落とされるように思う。

知識と経験の間にあるもの。
もしそれが、満足感だとか気づきだとか自信だとか感覚的なものだけだとすると、満腹のまま餓死する人を許してしまうんじゃないだろうか。
経験の「質」は、「物質的な何か」に還元されるべきものなのかもしれない。