u1row's blog

作曲、演奏、読書、アプリ制作・・・、生きた証を日々更新

日本語に頼らないコミュニケーション

日本語に頼らないコミュニケーションができたらいいなと思う。言葉は思考の源泉であると同時に、枠ぐみを与えて飛躍を抑えるものでもある。
日本語に頼らないというのは、1つには外国語を話すことがある。外国語を話すと、きっとそれだけで思考の枠組みが広がるだろう。
やっぱり英語くらいはちゃんと話せないとなという気持ちはずっとあるが、いまだに「問いと答え」がセットになっていないと扱えないという問題を抱えたままだ。

もう一つ、日本語に頼らない手段として、そもそも言葉に頼らないコミュニケーションへの憧れがずっとある。思い浮かぶのはジョアン・ジルベルトの来日公演。
コンサートの途中で俯いたまま身動きひとつしなくなった。自分が観た日はそんなに長くはなかったように記憶しているが、中には10分以上、停止していた日もあったらしい。
「寝てた」という説もあるが、本人が言うには、日本の聴衆の音楽を聴く態度にいたく感動して、客席の一人ひとりに心の中で感謝の想いを届けようと語りかけていたらしい。それが本当かどうかはわからないが、そういう形の対話があるのならば、あるいは許されるのならば、自分はそんな風に人と関わりたいと思う。
毎日駄文を書き連ねながら思う。こんな文章は、本音でもなければ、本当でもない(別にウソを書いてるわけじゃないが、ウソでないこととホントであることの隔たりはとてつもなく大きい)。
ポルトガル語ネイティヴのジョアン・ジルベルトが、大半が日本語ネイティヴの聴衆に黙ったまま語りかけたあの姿には、どんな修辞にも勝る意思伝達の極意が凝縮されているのように思う。

『まんがで読破 神曲/ダンテ』読了

だいぶ前に永井豪のマンガ「神曲」を読んだか、さらにコンパクトにまとめられたマンガで20分くらいで終わった。
日本昔ばなしでも三途の川を渡って死後の世界を見に行って、地獄の恐ろしさを言って聞かせる話があったような気がする。
小便をチビるくらいにビビる子どもに「もう悪いことはしません」と言わせる「ナマハゲ」的な手法は、時代や国や宗教を問わず、道徳観の形成に広く利用されてきたのだろう。
それはそれとして「神曲」は、地獄、煉獄、天国と一つの世界が体系として描かれているところに「ナマハゲ」とは違う文学としての価値があるんだろう。

別にナマハゲを悪く言う意図はない。
でも、ナマハゲにも何かしらストーリーとか世界観があってもいいかもしれない。
ただ、文脈や背景と切り離されてキャラそのものが疑問もなく受け入れられるのは、日本特有の風土によるのかもしれない。

カエターノ・ヴエローゾの"Livro"を聴く

久しぶりにカエターノ・ヴエローゾの"Livro"を聴く。
今どき、あらゆる曲、あらゆるアーティストが細断されシャッフルされて、アラカルトの選択肢が無限に与えられている時代に、14曲のフルアルバムを通しで聴こうというのは、世の中的にはレアな行為かもしれない。
しかも、このアルバムは14曲の曲調がそれぞれ個性的で、個別に独立した曲の集まりだ。
それを通しで聴こうとする、その心は?
たしかに曲調は多様で、それぞれが独立した曲ばかりだが、決して「寄せ集め」ではない。個々が独立しているのに、全体としての一貫性は損なわれていない。アルバムを通して聴いていると、徐々に高まる「ある感覚」がある。強いて言葉にするなら「豊かさ(richness)」かな。
きっと、文化的な奥深さと言葉の響きの美しさが「豊かさ」を醸成するのだろう。「文化と言葉の響きが通奏低音として流れるアルバム」とまとめられるかもしれない。
考えてみたら、アルバム単位で聴こうと思うのは、大抵この定義に当てはまっているような気がする。

 

『海街diary vol.8/吉田秋生』読了

毎度読み始めたら止まらない。今回は三女千佳と四女すずを中心に展開する。
成長物語と言って正しいのかどうかわからないが、「展開=成長」なので話が進むにつれて失われていくものに寂しさを感じる。

一方で、どこか傍観者のような冷めた目でも読んでいる。妻と娘が読んでるのを拝借している、ある種つまみ食いのようなスタンスからくるのかもしれない。
ここに描かれている人は、心に奥行きがあるようでいて、実際にはどこにも破綻がないまるで見本のような心の持ち主ばかりのように感じる。
ま、8巻までくると、ストーリーを進めないとならないだろうから、この時点で登場人物が破綻していたら物語にならないという根本的な問題があるのだろう。
とはいえ、心の機微を描く場面になると、どの登場人物も横顔、もしくは斜からのショットで、一様に「澄んだ目」をしている。
この「澄んだ目」が、せっかくの奥行きを平坦にしているように感じられた。
あくまで個人的な感想。

明日からに備えて

昨日、少しだるさを感じて咳も出たので、とにかくちゃんと寝ようと思い、
葛根湯を飲んで今朝は9時半まで寝た。
若干頭痛はあるものの、咳はおさまり、熱も出なかったのでひと安心。
今日はほぼ1日家で過ごす。
久しぶりに最高気温が30℃を下回ったこともあり、カーテン越しに届く風が涼しくて心地よい。
アイスコーヒーでも飲みながらのんびり過ごせればいいのだが、何もしないのがどうも苦手で、アイスコーヒーは飲むものの、結局あれを済ませて、これに手をつけてと終始何かをしていた。
締めの作業は、明日からのウィークデーに聴きたい曲の整理。
Chico BuarqueをCD棚から引っ張り出したら、ケースだけで中身がなかったのがショックだった。

サークルと女子力

「サークル」と聞いて連想するのが、大学生ではなくジイさんバアさんとなりつつある今日この頃。
20人くらいの何かのサークルで、「熱中症に気をつけましょう」というパンフレットを配るバアさんの話を聞いた。
夏に熱中症による脱水で亡くなる高齢者が少なくないという。そのため、市や医療機関が注意喚起に配っているフリーペーパーの類がたくさんあるらしい。

熱中症とは関係ない普通のサークルで、なんでそのバアさんはフリーペーパーを配っているのか?深い意味はなく、ただ単にサークル仲間たちの体調を気遣っての行動らしい。

「おせっかいバアさん」とつぶやくと、
「違うよ。女子力だよ」と妻。
なるほど、女子力に年齢は関係ないか!
納得。

初ゴキ

昨晩、今年初のゴキブリが出た。マンション5階暮らしの良いところは、蚊とゴキブリが滅多に出ないこと。一年を通じて、平均するとだいたい年に1〜3回程度。一度も出なかった年もあった。
それが今年はどうも雲行きが怪しい。まだ7月中旬なのに、すでに蚊は出たし、さらにゴキブリまで。
ゴキブリが出たというショックよりも、これから夏、残暑の時期が終わるまでに何匹と遭遇するんだろうという「憂鬱」が勝る。
憂鬱=メランコリー の「メラン」は、「メラニン」と同語源の「黒」。
ゴキブリ色のメランコリー、、、
気色わる。