u1row's blog

作曲、演奏、読書、アプリ制作・・・、生きた証を日々更新

GABA

小休憩にコーヒーを飲んだり、あと甘いものを少々。たまたまコンビニで目に入ったGABAというチョコレートを買った。ちょうど昨日読み終えた本に出てきたから目を引いたのだろう。γアミノ酪酸(Gamma Amino Butyric Acid)の略称がGABAということで、パッケージに書いてあるとおり、ザックリ言うと「ストレスを軽減する」働きがあるらしい。

"Butyric"という単語になじみがないので調べると、Butyric Acid「酪酸」の名は、バター(Butter)に由来するらしい。

臭いがあるそうで、銀杏の悪臭はこの酪酸のせいなのだとか。そう聞くと、お菓子としてどうなのかと思ってしまうが、BAの臭さをGAが抑えているのか、チョコでコーティングすればたいていの臭いは消えるのか、、、

ほんとのところはわからない。

 

『過敏で傷つきやすい人たち/岡田尊司』読了

HSP(highly sensitive person)についての本。以前読んだ同じテーマの本と同様、セルフチェックがついていたので試してみると、案の定まごう事なく「過敏な傾向が顕著」と。でも、自分よりも「これは妻だな」「これは娘だな」と思う項目やエピソードが多く、うちはHSF(highly sensitive 家族)だと再認識した。

HSPという言葉は一種の流行り言葉で、巷で耳にすることが増えているけれど、医療概念としては「?」で、精神医学ではほとんど黙殺されているのが実情なのだとか。

理由は「過敏」というのは症状であって、たとえば発熱という症状すべてを「熱病」と診断し同じ処方を施すのがありえないのと同じことだと。なるほど。

とはいえ、そのことで悩んでいる人がいるのならばそれを無視するのはまずいでしょという機運が高まっているのも事実で、この本はそのような観点でまとめられたものとのこと。

 


愛着とは心理的現象というより、生物的、生理的現象だという。また、平均値で見ると、人々はどんどん自己愛的になり、回避的傾向を強めているそうだ。

愛着、愛情は人と人との間に生まれるものという固定観念はとっくに覆されているということらしい。温かさを感じさせてくれるのは人間でなくて、モノでもシステムでもソフトウエアでも構わない、となった時にそれでもなお繋がっていたい、大切だと思える他人とはどういう人なんだろう。「巡り合わせという偶然」よりも、「選択という意志」の比重が高まるんじゃないか。人々はますます「回避的」になっていくにもかかわらず。

読みづらさ

人の「幸福度」「生きづらさ」を左右する要素を分析すると、「ポジティブかネガティブか」ということよりも「(音やにおいやなどに)どのくらい敏感か」ということの方がより強く影響するそうだ。「ネガティブ」であることは必ずしも不幸と結びつくわけではないし、逆もしかり。

幸・不幸、ポジティブ・ネガティブ、プラス・マイナス、陽・陰はそれぞれこの順に対応しているように感じる。実際ある程度は連動するのだが、直線的に結びついているのではなく微妙にネジれているのだろう。

鋭敏であることが「生きづらさ」に繋がるというのは、きっと鋭敏であることは制御できないためだろう。陰、マイナス、ネガティブはある程度制御かきく性質だ。そのように演じることもできるし、やむにやまれぬ場合でも防御反応、つまりある種無意識の演技である可能性もある。

いま読んでいる本。一気に読み終えるはずだったが、派生でこんなことを考えていたらページを繰る手が止まっていた。考えてしまうことを止めることはできない。これは「読みづらさ」に繋がる主要因かな。

歯の治療

先週から始めた歯の治療。
昨日は2回目で「患部に薬剤を詰めて仮のフタをした」と先生。あくまで仮のフタだから「来週もう一度」と言われて終えた。
ところが昨晩、歯を磨いている時に患部にガリッという嫌な感触がしたので手を止めると、白いカケラがポロリと出てきた。
カケラ自体は1〜2ミリくらいの小さなものだが、それがあったと思われるところに舌先をあてるととんでもなく大きな穴の感触。
このまま来週まで放っておけないので今日再び歯科医のもとへ。
「ああ歯がかけてますね。丸めておきましょう」と言ってキュイーンとほんの数十秒。
丸めるってなに?と思ったが、先生の話からすると歯がかけたところが尖っているから断面を均して舌があたっても違和感がないようにしてくれたということらしい。つまり違和感さえなければ治療中の患部には影響なしとのこと。
とてつもなく大きな穴のように感じたのに、、、
穴を塞ぐまではガマンと思って今朝から飲みものしかすすっていなかったことを思い返し、なんかちょっと損した気分になった。

哀の共有

夕方ラジオからエリス・レジーナが流れてきた。今日3/17はエリス・レジーナ生誕の日なんだとか。ラジオから流れる声、歌唱にしびれた。

1945/3/17生まれのエリス・レジーナは1982年に亡くなっている。直接の死因は知らないが深刻な薬物中毒を抱えていたそうだ。

ギタリストで一番好きなミュージシャンというと真っ先に思い浮かぶのはジェシエドデイビス。1988年にドラッグの過剰摂取で亡くなっているいる。

ピアニストでは何と言ってもニューオリンズの鬼才ジェームズ・ブッカー。やはり、1983年ドラッグの過剰摂取で倒れそのまま亡くなったそうだ。

ここ数日、ミュージシャン・アーティストやや俳優とドラッグの関係が話題になっている。ドラッグの使用を認めた俳優・ミュージシャンの関連作品が次々とお蔵入りしているのだとか。でもこの反応はかなり的はずれだと思う。

ドラッグの使用によって、アーティストとしての作品、あるいは俳優として出演した作品の価値が損なわれるのか?

「損なわれる」という人もいるかもしれないが、自分はそうは思わない。それに仮に損なわれるにしても、だからといって「見てはいけない」「聴いてはいけない」と蓋をしてしまうのはまずい。それがまかり通ってしまうと、エリス・レジーナの声もジェシエドデイビス のギターも、ジェームズ・ブッカーのピアノも知る機会が奪われることになる。それは人類にとっての財産を享受する機会の喪失を意味する。

ドラッグが作品を生み出すわけではない。作品は人間が生み出すものだ。仮にその人間がドラッグに依存していたとしても、ドラッグは作品を生まない。

強いて言うならドラッグに依存する人の「哀」が作品により深く刻まれるところはあるがもしれない。でも、その「哀」はフタをすべきものではなく、むしろ広く共有すべきものだ。そこに感動や共感の源泉があるのだと思うからだ。

いま話題の某俳優・アーティストにはほとんど思い入れはないが、法律上負うべき罰と、俳優・アーティストとして負う社会的制裁が同じベクトルの向きであるのは変だなと思う。

あじさい公園へ

午後、妻、娘と3人でドライブ。少しだけ車を置いて葉山のあじさい公園へ徒歩散歩。
この公園はこれが2回目。前回は昨年のあじさいの時期だった。
梅雨の合間の晴れの日であじさいも目の前に広がる海もきれいだったが、今日はどうだろう。
あじさい公園という名前からすると6月以外はずっと季節はずれ、ということになりはしないか。

20、30段くらいの階段を上ると海に面した景色が広がる。
たしかにあじさいのない広場には目を惹くものが何もないが、遮るものがなく海を見渡すのはやっぱり気持ちがいい。
これが自宅の庭ならさぞかし心が休まるだろうな。
いやこれが日常になると、非日常のハードルが上がってしまうか。
感動の閾値が高まってちょっとやそっとの景色ではきれいだとは思わなくなるのもどうか。
自宅から車で少し足を伸ばせば楽しめる。今くらいの距離感がちょうどいい。

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エクリチュール

文章を書くというのはやはり訓練なのだそうだ。

大学の公開講座や教養講座などを受講する方に非常に多いのが、文章を書けない人たちだという話を聞いたことがある。

非常に熱心に聴講し、ノートをとり、質問もする。参考文献まで読んで、いざレポートとなると何も書けない。

「とてもおもしろかったです」と小学生の読書感想文のようなレポートを書く人が一人や二人ではないらしい。

きっと聴講しているときには理解しているのだろうし、質問したり参考文献を読んだりすればその理解も深まっているはずだ。

ただ理解していることとそれを文章で表現することは別で、そのアプトプットの作業には訓練が必要だということなんだろう。

ならばアウトプットの訓練は必須なのか?

自分の中で理解している(つもり)ならばそれ以上に何が必要か、とは考えてはいけないのか?

文章が上手な人間の理解の方が、文章が書けない人間の理解よりも必ず優れていると言えるだろうか?

また仮に優劣があったとしても、他者との比較ではなく純粋に自分の満足だけが目的ならば、自分が満足する程度に理解していればそれを文章化できなくても構わないのではないか?

ますます世の中が高齢化し生涯学習がより一般的になっていく時に、「何のため」「誰のため」ということがなければ、教養は「若返りサプリメント」のような消費財になってしまうかもしれない。