u1row's blog

作曲、演奏、読書、アプリ制作・・・、生きた証を日々更新

かさねミソ

自動販売機の前に立つとズラッとコカコーラの地域限定ボトルが並んでいた。普段はお茶かコーヒーだが、スリムでムダのない形がいいなと思ってコーラを選んだ。

アルミ素材でこの形状のは数年前から出ているそうだ。地域限定デザインは2020に向けて数を増やしているらしい。

ここからぼんやりとコーラのボトルに限らずデザインのことをあれこれ考えて、とりあえずひとつの結論にたどり着いた。

デザインの構成要素は、直感とコンセプトとエピソードだ。これらの要素をパーツとして組み合わせるのではなく、レイヤーとして重ねるのがミソ、、、

つまりデザインとは「あわせミソ」ではなくて「かさねミソ」である。

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ギャップと共通項

昨日みうらじゅん宮藤官九郎の雑談本を読み終えて、今日手に取ったのは信田さよ子さんの本。

最初の数ページを読んで、みうらじゅんとのギャップに唖然とする。

比べようがない、いや、比べてはいけない?

でも、昨日の今日、、、しかも見つけてはいけない共通項まで見つけてしまった。

両方とも「まず女性、そして男」という主題が一貫している点に共通項を見てしまった。

みうらじゅんと、信田さよ子さん。

ゼッタイに接点などないだろうが、もし万一対談したらどんなだろう。

意外としっくりくるところはあるんじゃないか。わかりあえはしないが、しっくりはくる。

そうか、「しっくりくる」ための条件に、「わかりあえること」は必須じゃないってことか。

『世界全体会議/みうらじゅん宮藤官九郎』読了

深夜ラジオを文字起こしした感じのおバカトーク集。話してることはバカそのものだけど、目の付けどころと言語感覚が秀逸で、何度か電車で吹き出しそうになった。

この才能際立つ2人は、必ずしも凡人と違うものを見たり経験したりしているわけじゃなくて、イマジネーションと言語感覚、それから正直さをブレンドして、人(と言ってもオトコの子限定だが)に哀愁のただよう笑いを届けているんだなぁと思った。

葉山のあじさい公園へ

梅雨の合間の晴天。
散歩に出かけようかと調べてみると、あじさいで有名な鎌倉某所は1時間以上の混雑なんだとか。
穴場かどうかはわからないが、昨年も行った葉山のあじさい公園ならそんなことは絶対あるまいと目的地を定めて出かけた。
それなりに人は来ていたが、鎌倉の大混雑とは比にならない。タタタッと階段を上ると途端に視界が開けて、海と富士と江ノ島が一度に目に飛び込む。
昨日のまとまった雨のせいか、空気が澄んでいて海の青さがいつもと若干違って見えた。
写真というのは難しいもので、富士山のスケールも海の青さも写してみると跡形もなく消えている。
「もどかしい」「自分の目に映ったように撮りたい」という気持ちがもう少し強ければそこが写真の世界の入り口になるのかもしれないが、幸い?「ま、こんなもんか」という気持ちがあってもっと追求したいという衝動が湧き上がってこない。
簡単な自己分析では、視覚的な表現への関心が低いことと、切り取って記録するということの意味にどこか懐疑的なんだろうと思う。
ともかく、あじさいも景色もきれいだった。

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『罪の声 / 塩田武士』読了

グリコ・森永事件をベースにしたミステリー小説。グリコをギンガ、森永を萬堂などと固有名詞が置きかえられているのでフィクションとして読み進められるが、これこそ真相、ノンフィクションなんじゃないかと思わせる迫力がある。文章のキレがいいのもそう思わせる一因かもしれない。
映画化されるそうだ。この文章のキレは、いわば文章からBGMが聞こえてこない感じなんだけど、映画になるとやっぱりそこらじゅうBGMが挿入されるんだろうな、、、どんな風に表現されるのか見てみたい気はする。

メガネを外して

本を読むのにメガネを外した方が楽だなと思うことが増えてきた。

「メガネ外さな見えへんのか」とため息をつきながら、考えてみるとおかしな話だと思う。もとはメガネしてなかったんだから、本来の姿に戻っただけじゃないか。「近くを見るときは、メガネに頼らなくてもよくなった」と考えよう。それでなにが変わるわけでもないが。

好悪と善悪

働き方改革がらみで、「ホワイト」をコンセプトにしたプロジェクトを提唱した企業が差別的だと批判され取り下げたというニュースを見た。

きっと「ブラック企業」という言葉からの連想でブラックではない「ホワイト」と短絡的に言ってみただけなんだろう。

中には「日本では差別にはあたらない」という人もいるようだが、自分の感覚からするとアウトだ。そこで、どうしてアウトだと思うのか考えてみた。

人にはそれぞれ好みの色がある。例えば「白は好きだが黒は嫌いだ」と感じたとしてもこれは差別ではない。でも、「白は善いが黒は悪い」と言ったとたんに差別の「色」合いが濃くなる。なぜか?

単なる波長の違いでしかない、いわば物理現象である「色」を「善悪」「美醜」という価値判断の対象にすると差別的になるんじゃないか。

「愛着」「嫌悪」といった個人的な感情と、「真善美」といった価値判断の間には大きな隔たりがある。しかし、現実の社会においては、個人的な好悪と価値判断としての善悪がしばしば混同される。混同は無意識的なもので悪気ははない。悪気がなければ差別ではないのか。むしろ逆で、その悪気のなさ、無邪気さのせいで、差別を受ける側は二重にダメージを受けるんじゃないか。

つまり「日本ではオッケー」という議論は、それ自体が差別のダメ押しだと言える。

ここまで書いて読み返してみた時に「アウト」という言葉に引っかかった。

物理現象に過ぎない「色」を価値判断の対象にするのはアウト、、、

ん?「アウト」はいいのか?

「イン=内」「アウト=外」、単なる位置関係を表すだけの言葉なのに「アウト」をダメという意味で使っている。差別的?

「アウト!」という言葉に傷ついてる人がいるか。考えたことなかったなぁ、、、

いるかいないか、いずれにしても、「ホワイトブラック」という言葉にセンシティブな人がいるなんて考えたこともなかった、と言う人とおんなじか。